皆さんが生まれた時から当たり前のように、名乗っている「名字(苗字)」。 自分に名字があることなんて当たり前のことすぎて、改めて考えたこともない方が多いと思いますが、自分の「名字」がいつ決まって、いつから使われるようになったのかをご存知でしょうか?

歴史ある名家や旧家出身の方でない限り、ご存知の方は少ないと思います。知っていたとしても、家族の言い伝え程度の情報ではないでしょうか。

自分が今の名字であることにも理由があり、歴史や由来があります。そこでこの記事では、名字の歴史と由来、自分の名字がいつ決まったのかについて、解説します。

名字とは一体何?

名字の歴史について触れるまえに、「名字」とは一体何なのか?という点をハッキリさせておく必要があります。現代では「氏」も「姓」も「名字」と名前という意味で用いられていますが、古代(平安時代以前)では氏姓制度がしかれ、「氏(うじ)」と「姓(かばね)」は区別されていました。

古代の「氏姓」と「名字」は別のもの

ヤマト王権

氏(うじ)とは

「氏(うじ)」とは「氏族」と呼ばれる血縁集団を表し、各氏族には王権の中で担当する職務が定められていました。古代の大王家(天皇家の前身)を中心としたヤマト王権では、その氏族を「氏」と呼んで管理し、氏族もその氏を名乗っていました。神事・祭祀を担当した中臣氏(なかとみうじ)、軍事や刑罰を担当した物部氏(もののべうじ)等が有名です。「氏」は天皇から与えることもありました。

姓(かばね)とは

「姓(かばね)」は、元々は古代の大王家が氏族に与えた「称号」のことをいい、臣(おみ)、連(むらじ)、伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)等があります。飛鳥時代になると、天皇を中心とする中央集権制度への改革を目指す大化の改新(646年)の中で、身分制度の整理を目的として天皇家から八色の姓(やくさのかばね)が与えられました。

八色の姓は文字通り8種類あり、貴族の姓としては朝臣(あそん)、宿禰(すくね)等が知られています。さらに、戸籍制度が始まったのもその頃で、管理上の必要から庶民にも庶民用の氏姓が与えられました。つまり姓(かばね)は“天皇から授かる”呼び名、称号のことだったのです。

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このように、古代の日本では「氏(うじ)」は血縁集団の呼び名のこと、「姓(かばね)」は天皇が与えた称号のことだったので、「名字」とは異なるものでした。その後、「氏と姓」は時代が進むにつれ、本来の機能を失っていきます。

増えすぎた朝臣(あそん)の姓

奈良時代後半になると、八色の姓によって整理された姓(かばね)が形骸化してきてしまいました。有力な氏族のほとんどの姓が朝臣(あそん)になってしまったのです。朝廷に功績のある氏族に対して、褒美として天皇が朝臣の姓を多く与えたことが原因でした。

朝臣(あそん)は皇族以外の臣下の中で事実上一番上の地位の姓だったため、氏族たちは当然、下位の宿禰(すくね)より上位の朝臣(あそん)の姓を名乗るようになっていきました。

源平藤橘(げんぺいとうきつ)の時代

平安時代になると、朝廷の重要な役職に就く氏族は「源平藤橘」と呼ばれる4つの氏族によって占められることになります。この源氏、平氏、藤原氏、橘氏の全てが朝臣の姓だったため、もはや姓は身分を整理する機能を失っていました。

さらに源平藤橘の中で、藤原氏は朝廷の中で圧倒的な力を持つことになり、「藤原氏」が多くなってきたことで、藤原どうし、お互いの区別がつきづらくなっていました。

名字のはじまりは平安時代後期

平城京

では「名字」に通じるものはいつから出てきたのかというと、平安時代の終盤に名字が生まれることになります。公家(くげ)と呼ばれる貴族の名字と、武士の名字とでルーツが異なりますが、どちらも当時の時代の必要性から自然発生的に生まれることになります。

公家(貴族)の名字のはじまり

藤原の氏族は、自分たちの屋敷のある地名等から家名(九条・近衛・鷹司・二条・一条等)で区別されるようになり、いつからか自らもその呼び名を名乗るようになりました。その後他の公家(貴族)である源氏、平氏、橘氏にも同様に広がっていき、平安時代の終わりになると、その通称としての「家名」が呼び方として定着しました。

>>公家(貴族)の名字は「家名・居住地」がはじまり

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武士の名字のはじまり

平安時代の終わりになると、荘園といわれる貴族所有の農地を警護するための武士、地方を開拓するために展開した藤原氏、源氏、平氏等に出自をもつ武士が誕生していました。この頃の武士では武蔵七党が有名です。その武士たちも公家と同じく姓を同じくするものが多かったため、区別がつきづらくなっていました。そこで、武士たちは自分たちの領地・名田(みょうでん)を守り、かつ明確にするため、自分の支配する土地の地名を名字として名乗ったのです。

>>武士の名字は「領地の名前」がはじまり

鎌倉・室町時代の苗字

鎌倉時代になると、名字は公家や武家などの特権だと意識され始め、幕府も農民の名字を禁止する政策をとります。しかし、室町時代になると、農民の一揆をはじめとする下剋上(げこくじょう)が相次ぐようになり、幕府の力が弱体化し、農民も武士に対して影響力を持つようになってきていました。

そんな時代の中で、武士も農民との関係を模索し、中には農民に対して自分の名字を与える武士も出てくることになりました。このようにして、幕府が農民の名字を禁止する政策は失敗に終わることになったのです。

最初は自由に誰でも名字を名乗れた

上のように姓を同じくする公家や武士から名字は始まりました。その後、①貴族の「家名」と②武士の「名字」は、「名字」として統合され、室町時代になると農民階層にまで広がっていきました。

このように歴史の視点でみると、大きな「氏」の集団から「姓」で区別していたものの区別がつかなくなり、出自を同じくする人達の間で「家」を区別する名称として「名字」が定着したということになります。姓(かばね)は天皇から授かるもので勝手に変えることは許されなかった一方、自分で自由に決められる「名字」は使いやすく、広がっていきやすかったのです。

現代でも「横浜の伯母さん」「金沢のおじいちゃん」等と呼んで親戚を区別することも多いと思います。今も昔も、土地や場所が要素になっている点については同じだったということになります。

安土桃山時代の苗字

戦国時代

戦国時代から安土桃山時代になると、天下を統一した豊臣秀吉が「刀狩り」や「太閤検地」に代表される武士と農民の身分の分離政策(兵農分離)を進めます。この頃になると幕府の影響力が強まり、「苗字を名乗ること」についても支配階級の特権と意識されるようになり、庶民は次第に苗字を公称することを自粛するようになってきます。

江戸時代の苗字

徳川幕府の江戸時代になると、苗字が身分証明にさらに利用されることになり、1801年(享和元年)の苗字帯刀の禁令が出されます。これがいわゆる「苗字帯刀(みょうじたいとう)」であり、苗字が身分の象徴になったため、武士等の特権階級や一部の庶民(庄屋・名主)を除いて苗字を公の場で名乗ることができなくなってしまいました。当時の江戸時代の特権階級の名字は1万種程度だったといわれています。

商人や農民の中でも、元々武士の家が帰農した場合には苗字があり、上層の農民も苗字を持ち、商人も名字に「屋」をつけて屋号にしたりしていました。あくまで苗字を公に名乗ることが許されなかったのであり、苗字を持つことが許されなかったわけではありません。

そのため、公的な帳面である宗門人別改帳には庶民の苗字は書かれなかったものの、私的なものである寺の過去帳や墓碑には庶民の苗字が記載されることもあったといいます。つまり江戸時代でも庶民でも非公式に苗字を持ち、私的に名乗っていたということなのです。

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氏と姓と名字の例(織田信長の場合)

織田信長の氏姓の解説

あの織田信長の場合、「平朝臣織田三郎信長(たいらのあそんおださぶろうのぶなが)」という正式な名前を持っていました。この時代の公家や武士は出世するほど名前が長くなっていったのです。これに官名である「上総介(かずさのすけ)」を入れて、呼称するときもあります。

<名前の成り立ち>
1.一族を表す「氏(うじ)」
2.身分や地位を表す「姓(かばね)」
3.自分の家(直系血族の集団)を表す「名字(みょうじ)」
4.個人の通称名を表す「字(あざな)」
5.個人の本名を表す「諱(いみな)」

この組み合わせでお互いを識別していました。こう並べてみると、最初から本名(諱)で呼びあえばいいのでは?と思うかもしれませんが、当時の諱(いみな)は、生前に呼ぶことは親などの親しい人を除いて非常に失礼なこととされていました。そのため、「信長様」等と呼ぶことは実際にはあってはならず、個人で区別のつけやすい通称名である「字(あざな)」も持っていたというわけです。

昔だけではなく今でも、初対面の人や目上の人を名前で呼ぶと、馴れ馴れしい・無礼と思われるに違いありません。形を変えながら、日本人のマナーは今でも引き継がれているということなのでしょう。

明治維新によって名字が庶民のものに

喜ぶ男性

幕末に明治維新がおこり、明治の新政府が進める近代化政策の中で、これまでは“特権”だった名字をどのように位置づけるか議論が起こりました。最終的には全国民の把握、戸籍編成の必要姓もあって、庶民を含む全ての国民が公的に名字を持つことになり、名字について多くの太政官布告(法令)が出されることになります。代表的なものを整理しておきます。

【明治3年】1870年9月19日「平民苗字許可令」

明治新政府は、平民苗字許可令を出します。これはつまり、
「これからは庶民でも苗字を使うことを“許可”します」
というものです。これにより、公家出身の「華族」や、武士出身の「士族」ではない平民でも苗字を名乗ってもよいことになりました。しかし庶民にとっては苗字を名乗るようになると、新たに課税がされるのではないかと警戒して、名字の届け出を行う庶民は少なく普及しませんでした。いきなり苗字を名乗ってよいといわれて戸惑り、何かウラがあると思われていたのでしょう。現代でいうところのマイナンバー制度の導入経緯に似た部分があるといえます。

【明治4年】1871年「戸籍法」制定

通称「壬申戸籍(明治5年戸籍)」編成のために戸籍法が制定され、苗字の登録が推進されました。この壬申戸籍は「家」を単位として国民を把握するもので、現在のように「夫婦・親子関係」を単位とするものではありません。

【明治4年】1871年「姓尸不称令(せいしふしょうれい)」

この太政官布告によって、今後の公文書に「姓尸(せいし)」=先に紹介した「氏(うじ)と姓(かばね)」を表記せず、「苗字」と「実名(本名)」の2つの要素で表記すると定めました。これにより、古代から続いてきた氏(うじ)と姓(かばね)は廃止され「苗字」に集約されることになり、現代と同じ「苗字」と「名前」の時代が到来したことになります。

【明治5年】1872年「複名禁止令」

通称と実名、どちらか一方を名とすべきと布告が出されました。

【明治5年】1872年「改名禁止令」

すでに登録済みの苗字の変更を禁止しました。個人の識別のための苗字だったことから、安易な変更を禁じたのです。

【明治8年】1875年2月13日「苗字必称義務令」

苗字の登録が普及しないため、1875年に新政府は改めて名字の使用を“義務づける”太政官布告を出します。これにより、
「これからは庶民も必ず苗字を使いなさい」
「苗字がわからない人は新しくつけて、その苗字を使いなさい」

という命令が出たことになります。上の戸籍法と合わせて苗字の登録が促され、自分の苗字がない(わからない)人は新しく苗字をつけなくてはならなくなったのです。

名字をつける方法とは

名前を書く

明治維新によって、これまで名字を使ってこなかった庶民が名字を使うようになり、新しく名字を決めて登録することになります。この時に、日本の名字の数が爆発的に増えることになりました。江戸時代に把握されていた名字が1万種類程度だったのが、今では10万種類以上になっているといわれています。

江戸時代に公家だった人は、「家」を表す名字(九条・近衛・鷹司等)を、武士だった人は領地(名田)の名前(地名)を名字として使うようになります。公家や武士以外の庶民は以下のような方法で名字をつけたといわれています。

<庶民が名字をつける方法>
1.江戸時代から苗字を許されていたのでその名字を使った
2.江戸時代以前から持っていた(けど名乗れなかった)名字を使った
3.地元の庄屋、名主、寺の住職等に名字をつけてもらった
4.自分で新しく名字を考えて届出た

名字のパターン(代表的なもの)

名字の付け方は自由でしたが、必ず何かの縁がある名字をつける場合がほとんどだったといわれています。地名を由来とするものが最も多く、全体の8割程度を占めるそうです。地名を由来とする名字が多い理由は、上で解説した「名字のはじまり」を思い出していただければ納得できると思います。ここでは、代表的な5つのパターンを紹介します。

名字の由来 名字の例
1.地名が由来のもの 渡辺、横山、佐々木、長谷川等
2.地形・風景が由来のもの 山口、小谷、中島、田代等
3.方位・位置関係が由来のもの 北、東、上村、西村等
4.職業が由来のもの 服部、加賀谷、犬養、鍛冶等
5.藤原家が由来のもの 佐藤、伊藤、遠藤、安藤等

名字の種類が増えた理由

名字のパターンは上のようなものですが、他に独特の付け方をした名字も存在します。日本は名字の種類が多い国として有名ですが、日本の名字は元々「家」を表すものだったため、分家だった場合は本家の名字から漢字を変えたり、読み方を変えたりと「家」ごとに個性を持たせる傾向があった結果、名字の種類が増えたといわれているのです。

このように、日本の名字の付け方はとても奥深いため、学術的な研究対象にもなっています。名字を専門的に研究する姓氏研究家としては、森岡浩さんが著名です。

婚姻による名字の変更(夫婦同氏の原則)

全ての国民が名字を使うことを義務付けられた当時は、夫婦別姓でした。その後、政府によって様々な検討がなされ、1898年の明治民法によって夫婦同氏の原則が定められ、夫婦は必ず同じ名字を名乗ることとされました。

現在では、この夫婦同氏の原則が時代の変化に合わなくなってきていると議論されています。同じ名字でないと同じ戸籍に入れない同氏同戸籍の原則があり、さらに名字が簡単に変更できない決まりになっているのが問題だといわれているのです。

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戦後から現在の名字へ

行き交う人々

第二次世界大戦が終わり、日本は敗戦しました。その後のGHQの占領政策の中で、元々武士の家父長制が元になっていた「家」を単位とする戸籍制度が見直され、「夫婦・親子」の家族単位で戸籍が編成されるようになりました。現在でも同氏同戸籍の原則は維持されているため、家族は同じ名字を名乗っています。選択的夫婦別姓制度も議論されているため、そのうち夫婦でも違う名字を名乗る日がいつか来るかもしれません。

さらに近年では、外国籍を持った方が日本に帰化して、外国由来のユニークな名字をつけたり、カタカナの名字をつける例も出てきています。時代に合わせて名字もグローバル化が始まっているといえます。

名字の記念日

「平民苗字許可令」、「苗字必称義務令」と、名字に関する布告が2回出されたため、名字に関する記念日も2つ存在しています。9月19日は苗字の日、2月13日が苗字制定記念日です。今では名字は当たり前のものになっているため、名字が名乗れない状況は想像しづらいものになっていますが、日本人として歴史自体は知っておきたいものですね。

まとめ

いかがだったでしょうか。古代の「氏(うじ)」「姓(かばね)」から現代に通じる「名字(みょうじ)」まで、名字の歴史を振り返ってみました。氏と姓から数えると、相当な由来や歴史があったことがご理解いただけたと思います。これを機に、自分の名字の成り立ちや、ルーツも調べてみてはいかがでしょうか。このムービーのように、意外なことがわかるかもしれません。

僕のルーツ|名字を辿って行き着いた場所
珍しい名字を持つ若者が、カフェの店員の一言をきっかけに、名字のルーツを探しに行く物語です。