普段から私達日本人は、自分の名字を意識することなく、日常で当たり前のように使っています。生まれた時から、日常的に使ってきた名字ですから、あまり深く考えたことはないかもしれません。
しかし名字は、実際に調べてみると、色々なことがわかる場合があります。なぜなら名字にも長い歴史があり、自分が今名乗っている名字であることにも理由があるからで、場合によっては自分が元貴族の子孫だったことがわかることもあり得ます。そこでこの記事では、公家や貴族の名字について解説します。
この記事の最後には、10個の質問に回答するだけで自分の先祖が貴族だった確率がわかる「貴族診断」も用意していますので、是非挑戦してみて下さい!
目次
名字はいつから使われるようになったのか?
実は名字には長い歴史があり、起源を辿ると平安時代後期(西暦1000年頃)にさかのぼります。最初は公家(貴族)達がお互いを区別するための呼び名が名字の始まりでした。その後、名字は一度庶民にも広がったものの、戦国時代頃になると身分を区別するためのものになっていきます。
江戸時代になると「士農工商」「苗字帯刀(みょうじたいとう)」等の、職業によって区別される身分制度の中に組み込まれることになり、庶民が名字を名乗ることができなくなっていきました。名字の歴史については、以下の関連記事で詳しく解説しています。
今のように全ての国民が名字を名乗るようになったのは、明治8年(1875年)の2月に発令された「平民苗字必称義務令」がきっかけで、先祖が庶民だった場合はこの時に自分の先祖が届出をした名字を名乗っていることになります。
江戸時代には高い身分とされた公家(貴族)や武家(武士)の人々は、明治時代より前から名字を名乗っていました。しかし身分の低かった庶民が名字を名乗ることが許されたのは明治に入ってからのことだったのです。
この時に庶民が決めた名字は、元々持っていた名字を名乗ったり、地元の有力者の名字をもらった人もいる一方で、田んぼの近くに住んでいたから「田辺」、山の入り口付近に住んでいたから「山口」など、地名・地形・にちなんだ名字、商人は「犬養」「加賀屋」等の職業にちなんだ名字、「東」「西村」等の方角にちなんだ名字、「佐藤」「藤田」等、藤原家にちなんだ名字が多くありました。では元々名字を名乗っていた「公家」と呼ばれる貴族の人は、どのような人達だったのでしょうか。
公家とはどんな人達?
公家(くげ)とは、武家(ぶけ)との対義語で、天皇を長とする朝廷に仕える貴族のことをいいます。武家は今でいう軍人でしたが、公家は今でいう皇族のような人達です。今の皇族とは違い政治に積極的に関わる公家も平安時代までは多く存在し、公家出身の武家も多く存在します。平安時代の後、鎌倉幕府で武家政権が発足してからは、今の皇族と同じように政治に積極的に関わる機会は減っていきました。
公家(貴族)の名字とは
では、江戸時代の貴族である「公家(くげ)」は、どのようにして名字をつけたのでしょうか?藤原家に代表される公家達は、朝廷内に藤原が増えすぎて区別がつかなくなってしまったため、京都の邸宅のある通りの名前や地名からとった「家名」としたのが名字の始まりとされていて、公家(貴族)にとって「名字」とは「家名」だったのです。
では、その貴族の「家名」と「自分の名字」を並べてみて一致するのであれば、自分の先祖が公家(貴族)だった可能性がある!ということにもなります。それでは江戸時代の貴族であった公家・堂上家(どうじょうけ)の家名を見ていくことにします。
堂上家(どうじょうけ・とうしょうけ)
堂上家というのは、公家の家格の一つで、天皇が生活をしていた場所であった清涼殿にのぼる事(昇殿)を許され、「公卿(くぎょう)」になることのできる家柄の事をいいます。つまり、公家・貴族の中でも上級の人達のことを堂上家といい、公卿になれず昇殿を許されない家柄を地下家(じげけ)と呼びます。雲上明覧によると、江戸末期の堂上家は137家存在していました。
雲上明覧(うんじょうめいらん)
雲上明覧とは江戸時代に作られた、皇族や公家の名鑑です。天保8年に発刊され、その後数回改訂されています。実は国立国会図書館のデジタルライブラリーでも閲覧することができます。この雲上明覧大全に載っている公家(堂上家)の名字をご紹介していきます。
公家たちに存在した「家格」とは
公家と呼ばれるような貴族や、堂上家のような上級官人だった人達などは、以下の家格に分けられていました。
- 摂家(せっけ)
- 清華家(せいがけ)
- 大臣家(だいじんけ)
- 羽林家(うりんけ)
- 名家(めいけ・めいか)
- 半家(はんけ)
このように6つの段階的な階級によって分けられ固定化され、家柄によってなれる役職も決められていました。生まれた家柄でほとんど将来が決まってしまうということですから、今の日本人の感覚からすると、とても窮屈な制度だったに違いありません。
公家の役職(公卿)
役職の名前 | 役 割 |
---|---|
1.関白 | 事実上の朝廷の最高位の役職で、天皇を補佐する役割 |
2.摂政 | 天皇が幼少のときに、代わって政務を行う役職 |
3.太政大臣 | 太政官の最高位の役職で、具体的な職務がない名誉職 |
4.左大臣 | 太政大臣に次ぐ役職で、事実上の太政官の最高長官 |
5.右大臣 | 左大臣に次ぐ役職で、左大臣と同じ太政官の最高長官 |
6.内大臣 | 左右大臣に次ぐ役職で、左右大臣が欠員の場合等に代理として政務を行う |
7.大納言 | 太政官の次官とされ、大臣と政務を審議し天皇に奏上・勅命を伝達する |
8.中納言 | 大納言を補佐し、政務を審議し天皇に奏上・勅命を伝達する役職 |
9.参議 | 大中納言に次ぐ役職として任命され、政務に参加する |
この中の関白や摂政の役職は、日常的に聞いたこともあるのではないでしょうか。公家の役職はピラミッド式の階層になっていて、どの家柄に生まれかによってなれる職業が決まっていたのです。貴族にとって生まれた家格はとても重要なものでした。次に、6つの家格と名字を順番に紹介していきます。
公家の6つの家格
摂家(せっけ)
摂関家は公家の中でもトップクラスの身分で、たった5つの家だったことから五摂家(ごせっけ)とも呼ばれます。五摂家の方たちは、出世の仕方によって公家の最上位の職である摂政・関白・太政大臣などになれる人たちです。全て藤原家の嫡流であり、いわば公家(貴族)のエリート一族の家柄といえます。
摂家の名字(5家)
・近衛(このえ)
・鷹司(たかつかさ)
・九条(くじょう)
・二条(にじょう)
・一条(いちじょう)
この五摂家と同じ名字である場合、元公家(貴族)であった可能性が非常に高いです。明治維新の際に庶民は名字を自由に届出ることができましたが、この五摂家の名字はとても恐れ多く、庶民では届出ることはできなかったと考えられるからです。
もっとも、今でもこの5つの名字を持つ方は存在していて、自分たちの家柄に誇りを持っています。近衛家の子孫で、昭和の時代に内閣総理大臣を務めたことのある近衞文麿(このえふみまろ)氏は有名です。
きっと元摂家の家柄の方達は、家族の言い伝えの中で我が家の歴史を教えられていることでしょうから、今になって自分の家が元公家だった!と気づくことは、現実ではほとんどないでしょう。
清華家(せいがけ)
清華家は摂家の次ぐ家格で、太政大臣などになれる人たちです。実際は江戸時代の太政大臣は五摂家が独占していたため、左大臣が事実上の最上位の官職でした。摂家に次ぐといっても上級貴族であることは疑いなく、9つの家が存在していました。
清華家の名字(9家)
・花山院(かざんいん・かざのいん)
・大炊御門(おおいのみかど)
・三条[(さんじょう)転法輪三条(てんぽうりんさんじょう)]
・西園寺(さいおんじ)
・菊亭[(きくてい)今出川(いまでがわ)]
・徳大寺(とくだいじ)
・久我(こが)
・広幡(ひろはた)
・醍醐(だいご)
※[ ]内は家の別名を表しています。
上のような清華家の名字を持つ方も、摂家と同様に元公家である可能性は高いですが、中には公家の家名ではなく地名になっていたり、別のルーツを持つ名字(久我・醍醐)も含まれているため、名字だけで元公家だと断定することは難しいといえます。
大臣家(だいじんけ)
大臣家は、摂家・清華家に次ぐ家格で、3つの家が存在します。内大臣から太政大臣になれる資格はある家柄ですが、現実は清華家の昇進に準じて大臣に欠員が出たときに大臣になることができた位の家柄でした。
大臣家の名字(3家)
・正親町三条[(おおぎまちさんじょう)嵯峨(さが)]
・三条西[(さんじょうにし)西三条(にしさんじょう)]
・中院(なかのいん)
大臣家の名字は珍しいものが多いのが特徴です。嵯峨(さが)については地名になっていることもあり、名字としては一番多く使われています。嵯峨以外の名字については非常に珍しいこともあって、今でも存在しているのかハッキリしません。
もし、正親町三条、三条西、西三条、中院の名字を名乗っているのなら、元公家である可能性は高いといえます。
羽林家(うりんけ)
羽林家は、大臣家に次ぎ、後で紹介する名家と同列の家格で、武官職を経て参議から大納言まで昇進ができる家柄です。羽林とは中国で元々宮中を守る役職の意味があり、66家と数が多いのも特徴です。
羽林家の名字(66家・順不同・読み省略)
難波・飛鳥井・今城(中山冷泉)・松木(中御門)・園家・石野家・高野家・壬生(葉川)・石山・六角家・東園・冷泉(上冷泉)・冷泉(下冷泉)・藤谷家・中山・入江・持明院・水無瀬・町尻・桜井・山井・七条・滋野井・河鰭・阿野・橋本・野宮・梅園・清水谷(一条)・正親町・小倉・室町(四辻)・園池・花園・押小路家・武者小路・高松(西郊)・姉小路・風早・大宮・裏辻・藪(高倉)・中園・堀河・樋口・西四辻・四条・鷲尾・西大路・油小路・山科・山本・櫛笥・八条・岩倉・六条・梅溪・久世・東久世・高丘・千種・植松・愛宕・庭田・綾小路・大原
羽林家は堂上家の中で最も多い66家存在しました。中に知人の名字や聞いたことのある名字も多かったと思います。この名字の中に自分の名字が含まれていた方は、家族に名字のルーツについて聞いてみることをお勧めします。
それでもわからなかった場合は、家系図作りから始めて、自分の名字のルーツを辿ってみましょう。実は元貴族だった!なんてことがわかるかもしれません。
名家(めいけ・めいか)
名家は羽林家と同列のため、大納言まで昇進ができる家柄です。羽林家と異なるのは侍従や弁官等の今でいう宮内庁のような文官職を経て昇進する点です。28家存在しました。「名家」といっても、今の意味でいう名家とは異なり、公卿の家格の1つを表す呼称です。
名家の名字(28家・順不同・読み省略)
中御門・清閑寺・万里小路・勧修寺・葉室・裏松・竹屋・柳原・烏丸・広橋・日野・甘露寺(吉田)・坊城・堤(中川)・池尻・梅小路・穂波・芝山・岡崎・日野西・外山・豊岡・勘解由小路・三室戸・北小路・平松・長谷・交野
名家の名字も比較的聞き覚えのある名字が含まれていたと思います。自分の名字が含まれていたら、家紋と合わせて家のルーツを調べてみて下さい。名字だけでなく、家紋も合わせて調べることで、信憑性が高まります。
半家(はんけ)
半家は羽林家と名家に次ぐ、堂上家の中で最も低い家格です。儒学、弓箭、医道等、様々な技術をもって朝廷に仕えました。
半家の名字(26家・順不同・読み省略)
澤・竹内・高倉・五辻・白川・倉橋・慈光寺・西洞院・石井・高辻・東坊城・唐橋・桑原・北小路・清岡・舟橋・伏原・藤波・富小路・吉田・萩原・五条・錦織・藤井・土御門・錦小路
半家の名字も聞いたことのある名字が含まれていたのではないでしょうか。半家も堂上家の中で一番低い家格といっても、国全体からみたら一握りの上級貴族であることに変わりありません。自分の名字が含まれていたら、是非調べてみて下さい。
明治維新以降の貴族
江戸時代の公家は、明治維新の後は「華族(かぞく)」という新しい制度に置き換わり、引き続き様々な特権を持つことになりました。明治8年の平民苗字必称義務令によって、名字は全国民が名乗るようになりました。
上で紹介した公家の名字は明治以降も「名字」として受け継がれることになります。明治維新で活躍した公家としては岩倉具視(いわくらともみ)氏が有名です。
華族の中でも、臣籍降下した元皇族を「皇親華族」、公家の堂上家出身の華族を「堂上華族」、武家(大名)に由来する華族を「大名華族」、国家への勲功を挙げた者は「新華族」と区別されました。
公家が貴族の象徴だった江戸時代に比べて、明治維新後には新しい貴族が生まれることになり、日本の貴族の定義は大きく変化したといえます。華族の中でも、経済的な基盤が弱かった旧公家は生活に困窮するケースも発生し、一部の貴族にとっては受難の時代を迎えることになります。しかし、戦前まで華族制度は続いていたのです。
終戦・華族(貴族)の廃止
第二次世界大戦で日本は敗戦。その後社会制度は大きな変革を迎え、新しい憲法が制定されます。
日本国憲法第14条【法の下の平等、貴族の禁止、栄典】
第1項 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
第2項 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
第3項 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
これによって日本から貴族制度は消滅することになり、制度の上での華族はなくなりました。霞会館(旧華族会館)等、同族のコミュニティや繋がりは残りましたが、激動の時代を通して、日本社会で様々なものが変化していきました。その中で残ったものの一つが、日本人の「名字」だったのです。
現代日本の名家とは
今でも、「名家(めいけ)」「旧家(きゅうか)」「良家(りょうけ)」という言葉を聞くことはあります。どのような家が名家なのか、昔は家格・名字で簡単に判断できるものだったかもしれませんが、現代では様々な「名家」が生まれています。
今では学術で社会に貢献した人、ビジネスで成功した人、政治家として貢献した人、ノーベル賞を受賞した人、そんな方の「家」が名家と呼ばれるようになり、出自で身分や将来が決まる時代は終わったのです。
つまり、名家はこれから作ることができるようになり、さらには名家を維持する努力というものも求められる時代になったのです。
名字から自分のルーツはわかるのか?
これまで「名字で昔の身分はわかるのか?」というテーマで公家と貴族の名字について解説させていただきましたが、いかがだったでしょうか。
名字が一つの判断材料になる一方で、名字だけでは判断しづらいものだということもご理解いただけたと思います。
名字だけではなく、家紋や墓石も一緒に調べてみることをお勧めします。さらに家族の言い伝えも非常に貴重な情報になりますので、是非身近な祖先である両親や祖父母にも色々な話を聞いて下さい。
もしかしたら自分も!?貴族診断!
現代の日本社会では貴族制度は廃止されていますが、実は大昔の自分の先祖が貴族だった可能性はあります。この貴族診断は10個の質問に回答するだけで自分の先祖が貴族だった可能性を診断することができます!是非チャレンジしてみて下さい!
※ご入力いただいたメールアドレスには貴族診断の回答解説をお送りします
診断結果の見方
得点 | コメント |
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100 | ご先祖は“ほぼ”貴族(公家・華族 以下同じ)に間違いありません。 |
90~100未満 |
ご先祖が貴族であった確立が非常に高いです。本格的な文献調査をすることで貴族であった確証が得られる可能性があります。 |
70~90未満 | ご先祖が貴族の可能性はそれなりに高いです。本格的な文献調査をすることをオススメします。 |
50~70未満 | ご先祖が貴族であった可能性を感じます。戸籍調査を行った後、簡易な文献調査を行うとさらに情報が得られるはずです。 |
35~50未満 | ご先祖は貴族の可能性もゼロではありません。まず戸籍調査を行ってみて下さい。 |
35未満 | 残念ながら情報が少ないため判断が困難です。まず家の言い伝えを整理してから戸籍調査を行ってみて下さい。 |
いかがだったでしょうか。基本的なご先祖調査を行っていないと答えづらい質問も多かったと思います。今回は簡単な診断ですが、ご先祖が貴族であるかを本格的に調べるためには、戸籍調査や文献調査を行う必要があります。ご自身で調査を進めることもできますが、困難な場合は弊社の専門的な調査サービスの活用もご検討下さい。
※この判断はあくまでも一般的な歴史認識に基づく推測であり、必ずしも結果を保証するものではありません。
自分の祖先が貴族じゃなさそうな人へ
もし今回、自分の名字が堂上家の家名に含まれていなかったとしても、江戸時代より前の時代まで目を向けると先祖が貴族であった可能性は高まります。日本の古代からの長い歴史の中では、貴族でなかった人が貴族になったり、貴族だった人が貴族でなくなったことも多くあったからです。そう考えると、自分の祖先・ルーツが貴族である可能性は実はとても高いといえます。
さらに戸籍を辿って家系図を作ると、今自分が名乗っている名字だけではなく、母方も含めたたくさんの名字にゆかりがあることが判明します。自分のゆかりのある名字が増えれば、自分が公家や貴族の子孫であったことが判明する可能性も高まります。
先祖が武士や貴族じゃなかったとしても、今の自分まで命のバトンを渡してくれた大切なご先祖様に変わりはありません。自分のことをよく知り、自分の引出しを増やすためにも、家系図を作ったり自分の名字のルーツを一度調べてみることをお勧めします!
ご先祖が武士だった可能性も探ってみたい方は…
自分の先祖は公家ではなく武士かもしれない!という方は、以下の記事もご覧になってみて下さい。