歴史上、平氏は源平合戦の相手である源氏のライバルとして描かれることが多く、平将門、平清盛、平家物語等、学校でも必ず勉強するテーマだと思います。しかし「平家(へいけ)」が滅亡したことは周知のことと思いますが、平家が滅びた後の「平氏(へいし)」の歴史については実はあまり知られていません。実はご先祖探しをする上で重要なのは、平家ではなく平氏であることをご存知でしょうか。この記事では、

  1. 平氏の歴史はどのようなものだったのか
  2. 平氏の子孫は現代にもいるのか
  3. 自分が平氏の子孫なのかどうか調べる方法

上のような事柄について、家系図作成専門会社が今につながる家系図作りの視点から解説します。

平氏とは

平氏(へいし)とは、皇族が臣下の籍に降りる「臣籍降下」の際に天皇が「平(たいら)」の氏を授けたことにはじまる、賜姓皇族(しせいこうぞく)、つまり天皇の子孫の一族のことです。今も昔も皇族には氏が無いため、臣籍に降下する際には新しく氏を賜わるのが習わしでした。平氏の場合は天皇から「平(たいら)」の氏を賜った一族ということなのです。

「氏(うじ)」というと、今でいう名字のようなもののように思えてきそうですが、平氏の氏は、氏族を表すもので、現代の「名字」よりはるかに広い概念で共通の祖先を持つ同族集団のことを意味します。後で解説する平氏と平家の違いについても関わってくるところです。

源平藤橘の「平」が平氏

代表的な「氏(うじ)」には源氏・平氏・藤原氏・橘氏があり、その頭文字を並べて「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」(四姓)と呼ばれています。このうちの「平」にあたるのが平氏です。こういった氏は現代で意識されることはなくなりましたが、封建社会だった江戸時代までは、武士や公家にとってとても重要な関心事だったのです。

平氏の定義

ひとことに「平氏」といっても、一体どのような人達を指すのでしょうか。

1.天皇の子孫から臣籍降下した元皇族
2.「平」という氏を賜った一族であること

この2つがポイントです。天皇から賜った姓(かばね)が「平朝臣(たいらのあそん)」だったら平氏、「源朝臣(みなもとのあそん)」だったら源氏ということになり、源氏と平氏は同じ賜姓皇族という点で比較の対象になることも多いです。源氏は天皇の子供に与えられたのに対し、平氏は天皇の孫に与えられたことが多かったという特徴がありますが、基本的には源氏平氏の間では呼称が違うだけで優劣はなかったといわれています。日本の歴史の中では、この源氏と平氏が力を合わせて一緒に戦ったり、敵として相まみえたりしながら歴史が動いていきました。

平氏の家紋は揚羽蝶

平氏の代表的な家紋は揚羽蝶です。平清盛で有名な「平家」が文様として使用していた蝶を家紋に用いたことで全国的に普及し、その後多くの傘下の武士達の家紋となり拡大していったといわれています。家紋は公家から広まり、鎌倉時代以降に武家にも広がっていったため、平家は武家としては早い時期に家紋を持っていたともいえます。家紋の歴史については以下の記事で詳しく解説しています。

平氏のはじまりは平安初期

桓武天皇と平安京

「平(たひら)」の氏は、平安時代(794-1185)のはじまりである桓武天皇の時代に生まれました。第50代天皇である桓武天皇は、自ら積極的に政治に関わり多くの改革を行ったことで知られていて、中国の官吏制度をまねた律令制度を整備したり、東北の蝦夷討伐なども積極的に行ったりして「賢帝」と称えられた人物でした。特に平安京(京都)へ遷都を行った天皇として有名で、その後約1100年にわたって日本の中心であり続けた平安京(京都)の礎を築いた、非常に優秀な政治家でもありました。

臣籍降下した葛原親王

桓武天皇には多くの皇子がいましたが、帝位は平城天皇が引継ぐことになり、その弟たちの多くは「親王(しんのう)」という位を与えられます。その一人に、幼いときから才知に優れていたといわれる葛原親王(かずらわらしんのう)がいました。当時は一夫多妻制ということもあり、皇族の数が増えすぎて財政を圧迫していたため、葛原親王は桓武天皇の孫にあたる、長男の高棟王(たかむねおう)を皇族の籍からはずし臣籍に降下させたいと申し出て、高棟王は天長2年(825)に平朝臣(たいらのあそん)という氏姓を賜わり「平高棟(たいらのたかむね)」を名乗るようになります。これが平氏のはじまりです。

「平」という名の由来

「平(たいら)」という名称の由来は諸説ありますが、この桓武天皇が建設した平安京にちなんで「平(たひら)」と名づけたとする説が最も有力です。一方、同じ賜姓皇族である源氏は弘仁5年(814)にはじまったとされていることから、源平藤橘の中では平氏は最も新しい氏ということになります。

平氏の4流派

桓武天皇の孫からはじまった平氏でしたが、「平」の氏を与えた天皇は他にも3人いたため、平氏の流派は4つ存在していました。

平氏の流派

1.桓武平氏(かんむへいし)

桓武平氏は、平安時代の天皇である50代桓武天皇の子孫で、平(たいら)の姓を賜った家系です。葛原親王、万多親王、仲野親王及び賀陽親王の子孫。このうち、葛原親王の流れが平氏の主流となり、最も栄えることになります。

2.仁明平氏(にんみょうへいし)

54代仁明天皇の皇子である人康親王と本康親王の子孫たちの多くは「源」の氏を賜りましたが、本康親王の長子雅望王、次子の行忠王及び四子惟時は「平」の氏を賜りました。その流れが仁明平氏と呼ばれています。4代程度で子孫は絶えてしまったといわれています。

3.文徳平氏(もんとくへいし)

55代文徳天皇の皇子のうち、平姓を賜った惟彦親王の子孫。文徳平氏も尊卑分脈に5代程度の系図が残っているに過ぎません。文徳天皇の流れでは、平姓ではなく源姓を賜った文徳源氏もあります。

4.光孝平氏(こうこうへいし)

58代光孝天皇の孫・式膽王、興我王及び忠望王の子孫の平姓を賜りました。尊卑分脈に8代程度中興の祖が載っていて、平篤行・兼家の父子は古今集の歌人としても知られていますが、以後の子孫は途絶えたといわれています。光孝天皇の流れでも、平姓ではなく源姓を賜った光孝源氏があります。

平氏でもこの4つの流派がありますが、この中で最も栄えたのが桓武天皇を始祖とする桓武平氏です。見てのとおり、栄えたというよりも、桓武平氏以外の流派は子孫が途絶えてしまったのです。こうして「平氏」とは「桓武平氏」のことを指すようになりました

平氏=桓武平氏のこと

公家平氏と武家平氏

公家 武家

平氏は桓武天皇を始祖とする桓武平氏だけが残りましたが、これから紹介するように桓武平氏の中でも平氏は大きく2つの流れに分かれます。平高棟(高棟王)の系統である「公家平氏(くげへいし)」と、平高望(高望王)の系統である「武家平氏(ぶけへいし)」です。

公家平氏(高棟流)

平氏というと平将門や平清盛のような武家のイメージが強いと思いますが、公家の平氏も歴史上重要な役割を果たしています。桓武天皇の孫にあたる平高棟(高棟王)の子孫は京の公家(貴族)となりました。この公家になった平氏は堂上の資格(公家の中でも昇殿を許される家柄=公卿になれる家柄)を持ったことから「堂上平氏(どうじょうへいし)」と呼ばれるようになりました。

平氏は公家としても繁栄した

堂上平氏の中では平高棟自身が「正三位大納言」という高い役職に任じられただけでなく、その支流からも多くの有力者が輩出されました。平安時代後期になると時信の娘である時子(二位尼)が平清盛の室となって徳子を生み、徳子が高倉天皇の中宮となって安徳天皇の母となったのみならず、時子の妹滋子が後白河天皇の女御となって高倉天皇の母となるなど、高望流の子孫である平清盛一門(武家)と並ぶほど、公家としても繁栄したのです。

あの有名なセリフも…

「平氏にあらざるものは人にあらず」

どこかで一度は聞いたことのあるこの有名な一言も、堂上平氏の一族である平時忠(たいらのときただ・平清盛の義理兄)が発した言葉といわれています。当時の平氏にそれだけの威勢があったことを示す、有名すぎる言葉です。

この時忠の子孫が2~3代で絶えたのに対し、時信の弟信範の子孫は堂上家となって続いていきました。その嫡流ともいうべき烏丸・安居院家は早く絶えてしまいましたが、西洞院・平松・長谷・交野・諸家に分立して明治時代まで続いていきました。時忠の子である時国の子孫は平家滅亡後に能登国(石川県能登半島)に流されますが、子孫は能登屈指の名家、時国家(ときくにけ)となります。

武家平氏(高望流)

平氏のイメージといえば、なんといってもこの武家の系統でしょう。高棟王の弟である高見王の子(桓武天皇の曾孫にあたる)、高望王(たかもちおう)は寛平元年(892)に平朝臣姓を賜わり、平高望(たいらのたかもち)と名乗って武家平氏の祖となりました。日本史でも有名な平将門、平清盛、鎌倉執権北条氏、坂東平氏の一族も全て、この平高望を始祖とする武家平氏の流れなのです。次に桓武平氏の主流であり最も栄えた武家平氏の歴史について解説します。

平高望流・武家平氏の歴史

桓武平氏の支流

武士のはじまりは国司(こくし)

源氏や平氏のような武士は「国司(守・介・掾・目)」をルーツとしています。中央政府(京都)から派遣された官司で、今でいう都道府県知事のような役職のことです。武家平氏の祖となる平高望も長男国香(くにか)、次男良兼(よしかね)、三男良将(よしまさ)を連れて当時「坂東(ばんどう)」と呼ばれていた関東地方に国司として赴任することになります。当時、国司には4~6年程度の任期が定められていましたが、平高望の一族は任期が終わってもあえて京都には戻りませんでした。なぜなら任期を終えて中央政府(京都)に戻っても、そこには貴族の筆頭である藤原氏の影響力が強く、地方の方が安定した地位が確保できたからです。

平高望は国司としての赴任先に土着し、関東の未開の地を開発し領主となり勢力を拡大しながら、さらにその権利を守るべく武士団を形成して、その土地の治安維持に努めていました。平安時代の中期になると、諸国に群盗が出没して、治安維持が課題になっていたため、その土地の治安を守ることで中央政府での地位も向上させることができました。こうして、中央(京都)にも影響力を持つ高望流桓武平氏の基盤を固めていったのです。

平氏の内乱「平将門の乱」(939年)

将門塚

ところが平高望の三男良将の長男、平将門(たいらのまさかど)は関東のほぼ全域を支配し、朝廷(京都)の政治に反発。自身を「新皇」と称して独立国を樹立しよう反乱を起こしました。しかし平国香の息子貞盛や下野国(栃木県)の武将藤原秀郷らが朝廷から将門追討の官符を得て激しく攻撃し、平将門は天慶3年(940)に討死し企ては失敗に終わりました。貞盛は父国香が将門に殺されていたことから、いわば仇討ちの戦いでもありました。

討ち取られた将門の首は京都に運ばれて晒し首になりましたが、突如東国を目指して飛び去り、現在の東京都千代田区大手町に落ちたという伝説が残っています。1000年以上前の伝説が今でも語り継がれていて、その場所には現在でも「将門の首塚(上の写真)」があります。この「平将門の乱」は、平氏の内乱と、関東地方に根を張る武士達の存在感を印象づける出来事といえます。

平忠常の乱(1028年)

平将門の乱から約100年後の長元元年(1028)、平良文の孫にあたる平忠常(たいらのただつね)が反乱を起こします。朝廷は討伐軍を派遣したものの、3年もの間鎮圧できませんでした。そこで、源氏である源頼信を追討使として派遣したところ、平忠常は頼信の軍勢に恐れをなして、戦わずして降伏したといわれています。これにより、乱を鎮圧した源頼信の配下に多くの平氏の武士が入ることになり、河内源氏が関東で勢力を広げるきっかけになりました。

反乱は鎮圧されたものの、この頃までに平氏の一族は関東各地に土着してそれぞれ有力な武士団を形成しつつあったことがわかります。平安時代後期になると、平氏は源氏に次ぐ大族となって、関東各地に土着して武士団を形成し、後に坂東平氏(ばんどうへいし)と呼ばれるようになります。主な一族をあげると、三浦・大庭・梶原・土肥・相馬・千葉・上総・大掾・岩城・畠山・秩父氏の他、武蔵七党のうちにも数えられる村山党・野与党、さらに越後の城氏、尾張の長田氏等も有力でした。

伊勢平氏の平正盛が「北面の武士」に(1100年頃)

一方、源氏が関東地方の平氏達を傘下に加えていった中でも、平貞盛の四男平維衡(たいらのこれひら)を祖とする伊勢平氏の家系は関東を離れて伊勢国(三重県)に移り、源氏と同様に朝廷や貴族に仕える軍事貴族としての道を歩んでいきました。東国の武士達に影響力を持った源氏に対する朝廷の警戒感が高まるのにも相まって、平正盛・忠盛の父子が上皇の警護する直属軍である「北面の武士」となり、九州で起こった源義親の乱を平正盛が鎮圧したことが伊勢平氏の台頭の契機となりました。

保元の乱・平治の乱(1156-1160年)

平清盛

その後保元の乱(1156)、平治の乱(1160)を通して源氏の地位が凋落し、最終的な勝者となった平清盛が史上初の武士出身の太政大臣として平氏政権を樹立し、いわゆる平清盛一門「平家」が誕生することになりました。武家としての栄花を極めた平家でしたが、驕り高ぶり貴族化した平家は関東地方の武士(坂東武者)から反感を持たれるようになり、平清盛が亡くなった後は凋落の一途を辿っていくことになります。

平家の凋落、滅亡へ(1185年)

壇ノ浦の戦い

「おごれるものは久しからず」

この言葉のとおり、一ノ谷の戦い、屋島の戦いと平家は敗戦が続き、寿永四年(1185)、壇ノ浦の戦いで、ついに平家は滅亡し、源頼朝(源氏)が鎌倉幕府を樹立することになります。この頃から江戸時代まで、武士の中心は「清和源氏」となり、平氏は歴史の影に埋もれた存在となるのでした。

日本各地に残る平家の落人伝説

五箇山

平家が滅亡したこのとき、西国の武士の中には、平家側に加担したあげく、所領を没収され、もしくは滅ぼされたものも少なくありませんでした。これが今でも日本中にたくさん残る「平家の落人伝説」のはじまりです。これは、滅ぼされた平家の残党・郎党が身分を隠して僻地・山奥に移り住んだという伝承のことをいいます。

実際にそのような事実はあったはずですが、滅亡した家の歴史は史料として残るはずもなく、今での多くは伝説のままです。富山県の五箇山や、栃木県日光市の湯西川温泉が有名で、実は今では観光資源としてこの落人伝説が活用されています。

この落人伝説のように、史料が何も残っておらず証明も否定もできないケースは実際の家系図作りでもよくあることです今後の学問や技術の進歩によって明らかになる可能性もゼロではないのかもしれませんが、こういった部分も歴史の奥深さ・ミステリーとして楽しんでみてください

平家と平氏の違いって何?

ここで、混同しがちな平家と平氏の違いについて解説しておきます。

1.平家=平清盛一門(家族)のこと
2.平氏=桓武天皇から平姓を賜った家系

NHKの大河ドラマにもなり、日本史でもおなじみの「平清盛」は伊勢平氏の流れです。『平家物語』の中心となる、いわゆる「平家」とはこの平清盛の一門(家族)のことを指します。そのため「平家」に比べて「平氏」はもっと広い範囲の同族集団を指すことになります。そのため、平氏の子孫=平家(平清盛)の子孫ではなく、あくまで、大元まで辿ると同じ「平氏」ということになります。

平家は滅びて、平氏は残った

源平合戦のクライマックスである壇ノ浦の合戦で「平家」は滅びましたが、東国(坂東)に根を張っていた「平氏」は後世にわたって残りました。現代にも平氏の子孫はたくさんいるはずです。この有名な源平合戦は、実は関東地方(東国)の源氏平氏の連合武士団と西の平家の戦いだったからです。「平家」は「源氏」だけではなく元々の同族である「平氏」をも敵に回していたということなのです。

平将門や平家(平清盛)は日本史では重要人物ですが、滅ぼされて子孫がほとんど途絶えてしまったので“家系図的には”重要ではありません。ご先祖探しで重要な平氏は、この時に源氏側(鎌倉幕府)についた、坂東平氏の一族です。なぜならこの平氏の子孫の多くが様々な支流を作り、現代にまで続いていると考えられているからです

関東で有力武士団を率いた坂東八平氏

関八州と坂東平氏

「坂東八平氏(ばんどうはちへいし)」とは、東国に勢力を誇っていた平良文を祖とする8氏のことをいい、千葉・上総・三浦・土肥・秩父・大庭・梶原・長尾の8氏を指すと言われています。これらの一族の根拠地は関東地方全域にまたがっていて、この8氏以外にも平氏はこの他に常陸(茨城県)に大掾氏、陸奥(東北)に岩城氏、越後(新潟県)に城氏などが生まれ、それぞれ武士団を形成していました。

この坂東八平氏の活躍は、鎌倉時代の歴史書である「吾妻鏡(あずまかがみ)」に勇敢な坂東武者として格好良く書かれています。マンガ本も出ていて、歴史の勉強にもなるので、興味のある方は是非読んでみてください。

鎌倉幕府執権・北条氏も平氏

平家の滅亡とともに平安時代が終わりを告げ、源頼朝が本格的な武家政権である鎌倉幕府を樹立し、鎌倉時代がはじまります。源氏が武家の棟梁として認識されていくことになりますが、源氏は3代で途絶え、執権として北条氏が実権を握っていくようになります。鎌倉北条氏は平直方(たいらのなおかた)を始祖とする伊勢平氏の支流の系統といわれ(諸説あり)、さらに鎌倉幕府の有力御家人の中にも三浦氏、和田氏、千葉氏、梶原氏など、多くの坂東平氏が含まれていました。振り返ってみれば、伊豆国の流人だった源頼朝を支えていたのは、北条氏を始めとする坂東平氏だったのですから、平家を打倒し鎌倉幕府を樹立したあと、高い役職・立場が与えられるのも納得ですよね。

1300年代に入ると、北条氏は鎌倉幕府の滅亡とともに絶えてしまいましたが、平氏の子孫が途絶えたわけではありません。足利尊氏(清和源氏)が征夷大将軍となった室町時代になると源氏が隆盛となりますが、戦国時代を迎えても有力な平氏はまだ残っていました。上杉謙信を出した長尾氏、戦国武将の相馬氏をはじめとして、あの織田信長(織田氏)や北条氏康(後北条氏)も平氏を称していたのです

源平交代思想という俗説も

戦国時代は源平交代思想という、今まで源氏と平氏が交代で世を治めてきたのだから、足利氏(源氏)の次に天下を治めるのは平氏だ!と考える俗説があったといわれ、織田信長が平氏を称したのにはその思想の影響もあるのではないか、ともいわれています。

戦国時代が終わり、自称源氏である徳川家康が治める江戸時代になると、有力な武家平氏は減ってしまいますが、これだけ全国に広がっていた平氏一族ですから、武士をやめて農民になったものもいれば、商人として経済的に成功したもの、しぶとく下級武士として生きていったものなど、様々な方法で生き延びていったはずです。名字と家紋の相関関係からゆかりが読み取れたり、言い伝えに信憑性があったり、古文書が家に残されていたりと、今でも現代人と平氏とのゆかりを見つけることができます。私達の職業柄たくさんの方のルーツ探しをしていますので、桓武平氏とゆかりがあるお客様も多い印象です。また公家平氏については、江戸時代を超えて明治時代まで存続していました。つまり現代に至るまで、決して平氏は滅んではいないということなのです。

自分が平氏の子孫なのか調べる方法

「自分の故郷には平家の落人伝説がある!」とか、「自分の名字が「三浦」「和田」「千葉」だ!」とか、平氏にゆかりがありそうな方は多いと思います。勇猛な坂東平氏が好きで自分が平氏の末裔であってほしい!なんて淡い期待をお持ちの方もいるかもしれません。

そんな場合、自分が平氏にゆかりにあるか調べる方法のうち、最も手軽なの自分の名字の由来を調べることです。桓武平氏ゆかりの名字を流れ別にまとめて掲載しておきますので、自分の名字があるかどうか確認してみましょう。

武家平氏(桓武平氏高望流)の名字一覧

貞盛流

直方流(北条・熊谷氏)

北条・熊谷・越後・塩田・名越・相模・武蔵・遠江・陸奥・江馬・田伏・極楽寺・赤橋・阿曾・式部

繁盛流(常陸平氏)

城・大掾・岩城・横倉・青柳・矢田・島田・蛭町・豊田・石川・大戸・伊豆・余五・奥山・白川・安田・多気・馬場・吉田・行方・鹿島・東条・真壁・小栗・石毛・小高・島崎・麻生・玉造・河股・平戸・石崎・大野・大泉・小泉・前野・好間・好島・田谷橋・大窪・白方・多良崎・勝倉・市毛・武田・堀口・道理山・藤佐久・袴塚・箕河・吉沼・河崎・枝河・海道

良文流(坂東平氏)

三浦氏流(相模平氏)

三浦・杉本・長田・和田・横須賀・高井・筑井・水原・舞岡・矢部・秋庭・二宮・平塚・芦田・石田・岡崎・真田・土屋・大多和・多多良・佐久間・長井・大井・大河戸・佐原・蛭河・真間・藤倉・佐貫・猪苗代・比田・芦名・会津

鎌倉氏流(相模平氏)

鎌倉・大庭・梶原・長尾・股野・長江・香川

千葉氏流(房総平氏)

千葉・相馬・武石・国分・東・上総・大須賀・多賀谷・小高・君島・千田・有原・粟飯原・金原・武射・椎名・匝瑳・飯高・臼井・海上・堺・埴生・鏑木・須賀・白井

秩父氏流(秩父平氏)

秩父・河越・葛貫・高山・江戸・河崎・畠山・葛西

土肥氏流(相模平氏)

土肥・中村・土屋・新開・小早川

自分の名字、母親の旧姓など、上記の一覧に自分にゆかりのある名字が含まれていたら、平氏の末裔の可能性があります。今に伝わる名字は、大部分が平安時代末期から南北朝時代頃にかけて生まれたものと考えられています。

「一所懸命(いっしょけんめい)」という言葉のとおり、武士は「名字の地」を命を懸けて守り、その土地(名田)の名前を名字にして名乗ったことから、名字と地名は今も密接に結びついているのです

名字の由来を知る上では、まず同じ地名がないかを調べることが基本的な調査に含まれます。平氏ゆかりの名字は、千葉、三浦、鎌倉、熊谷、秩父、河越など、今でも残る関東の地名が多いことが見てわかるはずです。名字の歴史についてもっと詳しく知りたい方は、以下の記事を読んでみてください。

名字だけでは自分のルーツはわからない!

ルーツ探しは名字だけ調べても、実は参考程度の情報しかわかりません。そのため名字以外の情報も広く集めることが大切です。名字以外だと家紋は必須の情報になりますし、本格的に調べるためには江戸時代に自分の先祖がどこに住んでいたのかを、古い戸籍謄本を取得して調べなければいけません。

①名字、②家紋、③最古の本籍地、この3つの情報が揃ったらやっとご先祖探しをスタートできます。図書館で文献を調べたり、お寺にコンタクトをとって過去帳の情報を教えてもらったりと、やることはたくさんあります。本格的に調べようと思えば思うほど、終わりがみえない奥深いものだということを知っておきましょう。

桓武平氏は勇ましい「いぶし銀」

畠山重忠

源氏が征夷大将軍を多く出した、いわば「きらきら武士」であるのに対し、桓武平氏は地味だけど確かな実力がある、男らしい「いぶし銀」のイメージです。

学生時代に一度は学んだ歴史も、自分の先祖に想いを馳せながら振り返ってみることで、また違った歴史に思えてきます。大昔にも必ず自分の先祖は生きているわけですから、平安時代、鎌倉時代、室町時代、戦国時代、江戸時代と、その時々の自分の先祖のイメージを膨らませて学ぶことで、歴史を自分につながる物語として捉えることができるようになります

平氏は栄枯盛衰を繰り返し、全国に広がっていきました。その子孫も全国にたくさん残っていることでしょう(自覚がない方がほとんどですが)。大河ドラマを観て面白い!と感じている、実はあなた自身が平氏の末裔かもしれないのです。

家系図作り・ご先祖探しにチャレンジして、ぜひ「日本の歴史」と「自分の歴史」を結びつけてみてください。