奈良~平安の四大姓、「源平藤橘」

奈良時代から平安時代にかけて権威を振るった「源平藤橘」をご存知でしょうか。「げんぺいとうきつ」と読むのですが、一人の人名ではなく、源氏・平氏・藤原氏・橘氏をまとめた呼び名で「四大姓」とされています。

公家や武家では、現代わたしたちが名乗っているような名字とは別に、朝廷(天皇)から下賜された「氏」を持っていました。それがこの四大姓のような氏で、こちらが公式なので本姓と呼ばれています。源氏・平氏・藤原氏は日本史のメインストリートを歩んだの対し、橘氏はちょっとマイナーな存在かもしれません。そこで今回は「源平藤橘」の中でやや影が薄い橘氏にスポットライトを当てて紹介してまいりましょう。

源平はなぜ華があるのだろうか?

その前に「源平藤橘」の内、なぜ源平ばかりが目立っているのでしょうか。「源平の合戦」「平家物語」「源氏物語」といった源平に関する史実や物語があまりにもドラマティックなため、誰にとっても深く印象に残っている、ということがあります。

さらに、源氏と平氏は天皇家、つまり皇族が、皇族の身分を離れて臣下の籍に降りる「臣籍降下」にあたって下賜された姓でした。皇族は姓を持たなかったので臣下する際に「姓」をつける必要があったのです。源氏も平氏も、どの天皇の子孫が臣籍降下したかによってさまざまな流派があって、源氏においては21も流派があるとも言われています。家系図も各流派ごとに作られており、さらに天皇家との関係や女系にまでおよぶと複雑さを極めています。

また、臣籍降下した元皇族の格や天皇との距離によって微妙な力関係が生まれ、宿怨となり戦にまで発展することがありました。

橘氏の歴史にスポットライトを当ててみる

さて、派手な源平に対して「橘氏」とは。始祖は第30代の敏達天皇です。橘姓を最初に下賜されたのは、第43代の女帝・元明天皇の子で、第42代・文武天皇の乳母を務めた県犬養三千代。橘三千代を名乗りました。三千代と敏達天皇の後裔である美努王の間に生まれた子、葛城王が臣籍降下した橘諸兄は、橘氏の中でもっとも有名な人物と言っていいでしょう。諸兄以降の子孫も橘姓を名乗るようになりました。

橘氏の絶頂期は、藤原4卿の死没後に諸兄が躍進して、一気に正一位・左大臣まで昇進したタイミング、735年頃のことです。しかしほどなくして藤原広嗣の乱や、藤原仲麻呂の台頭によって急速に勢力は衰え、諸兄は756年に官を辞し翌年に亡くなりました。世継ぎした諸兄の子・奈良麻呂が正一位・太政大臣になるものの、藤原仲麻呂との政権争いに敗れると、天皇の廃立を企てる「橘奈良麻呂の乱」を起こし、結局は謀叛の疑いを掛けられ獄死してしまいました。

その後しばらくは、橘氏から公卿を輩出することはなく衰退していましたが、奈良麻呂の子・清友の娘・嘉智子が第52代・嵯峨天皇の(檀林)皇后となると、橘氏は再び上昇気流に乗ります。この頃、皇后を輩出する臣下氏族は藤原氏だったのですが、この立后によって貴族社会における橘氏の地位をぐっと上げることになったのです。奈良麻呂の子、嶋田麻呂の子、常主が約70年ぶりに公卿となります。さらには檀林皇后出生の皇子が第54代・仁明天皇として即位すると、嘉智子の兄、氏公が右大臣へと出世を果たします。

嘉智子の影響力が及んだこの時期が、橘氏にとって第二期黄金時代と言っていいかもしれません。9世紀半ばから10世紀後半に掛けては7人の公卿を輩出し、安定した勢力を確保していましたが、983年に亡くなった恒平を最後に橘氏公卿は絶えてしまいました。その後は衰退の一途を辿り、下級官人として細々と家系を継いでいくに留まっています。

シンプルでわかりやすい?橘氏の家系図

橘氏の家系図は、源氏や平氏と違ってとてもシンプルな系譜です。奈良麻呂以降は、息子の嶋田麻呂流の家系が続いていきます。7人の公卿、岑継(氏公長男)、広相(奈良麻呂5代の孫)、橘澄清(常主曾孫)、良殖(常主孫)、公頼(広相6男)、好古(広相孫)、恒平(良殖孫)の内、岑継以外の6人が嶋田麻呂流から輩出されました。

第二期黄金時代を支えた嘉智子は嶋田麻呂の弟にあたる清友流です。氏公も同じ清友流。家系の流れにはもうひとつ、嶋田麻呂と清友の弟である入居流もあります。 藤原氏の影に隠れがちで、パッと咲いてパッと散ってしまったような儚い印象の橘氏ですが、橘諸兄、橘嘉智子(檀林皇后)、橘氏公といった名前は覚えておいた方がいいのではないでしょうか。