皆さんは「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」という言葉をご存知でしょうか。これは日本の歴史の中で、奈良時代以降に繁栄した氏族である源氏・平氏・藤原氏・橘氏の四氏のことを指す呼び方をいいます。源氏と平氏、藤原氏は歴史の授業で一度は聞いたことがあるかもしれません。このような源平藤橘をはじめとする「氏(うじ)」は、今の日本の現代人にとっては社会的意味を失っているため、私達のような家系図業者ではともかくとして、一般の方にとってはほとんど馴染みがないものに変わっています。
しかしこの「氏」は日本人の民族性の根幹ともいえる要素でもあり、現代を生きる日本人のルーツの大半は必ずこの「氏」に辿り着くことになる、なんてことはほとんど知られていません。自分は何者なのか?なぜ日本人なのか?を知る上でも、氏に関して知識をつけておくことは意味のあることではないでしょうか。
この記事では日本の代表的な4つの氏である源平藤橘の由来や歴史、さらには自分のルーツである氏を調べる方法について解説します。
目次
歴史ある四姓・源平藤橘とは
源平藤橘とは、日本で代表的な「4つの氏(四姓)」のことをいいます。この氏は古代~平安時代に、天皇から臣下に対して、与えられた「氏姓(うじかばね)」がルーツとなっています。天皇から臣下に対して氏姓を授けることを賜姓(しせい)と呼び、その賜姓する事例も様々です。
天皇が賜姓する事例
- 臣下に功績や技能に対する恩賞として与えた
- 皇族の臣籍降下に際して与えた
- 朝廷内の身分秩序や序列を整理するために与えた
このように、大きく3つの事例がありました。
源平藤橘の比較・分類表
源平藤橘の四姓について、上に紹介した氏姓の情報や賜姓経緯などを整理すると次のようになります。
氏(うじ) | 姓(かばね) | 発生年 | 始祖 | 賜姓背景 |
---|---|---|---|---|
源 (みなもと) |
朝臣 (あそん) |
814年 | 嵯峨・清和・宇多天皇など (源融・源経基など) |
臣籍降下 |
平 (たひら) |
朝臣 (あそん) |
825年 | 桓武天皇 (平高棟・平高望) |
臣籍降下 |
藤原 (ふじわら) |
朝臣 (あそん) |
684年 | 中臣鎌足 (藤原不比等) |
恩賞 |
橘 (たちばな) |
宿禰(すくね) →朝臣(あそん) |
736年 | 県犬養橘三千代 (橘諸兄) |
恩賞+臣籍降下 |
氏の名称の由来
源氏 | 中国の古書『魏書』より「源を同じくする…」にちなむ |
平氏 | 桓武天皇が遷都した平安京の「平」にちなむ |
藤原氏 | 大和国藤原(現:奈良県橿原市の地名) |
橘氏 | 杯に浮かんだ橘にちなむ |
このように源平藤橘でも様々な歴史や由来があることがわかると思います。
氏と姓は違う!?
氏(うじ)と姓(かばね)については混同しやすいものですが、次のような違いがあります。正式な文書などでは、源朝臣、平朝臣、藤原朝臣、橘宿禰のように必ず組み合わせて名前の一部として使用されます。
- 氏=姓(かばね)を識別するための呼称(源・平・藤原・橘 等)
- 姓=功績や技能に対する恩賞・称号(朝臣・宿禰 等)
氏と姓にはこのような違いがあり、正式な文書ではこれを組み合わせて源朝臣(みなもとのあそん)、平朝臣(たいらのあそん)、藤原朝臣(ふじわらのあそん)、橘宿禰(たちばなのすくね)のように名前の一部として用いられていました。この氏姓は天皇からもらった公式なものであることから「本姓(ほんせい)」とも呼ばれます。氏姓制度の歴史については以下の記事で詳しく解説していますので興味のある方はご一読下さい。
源平藤橘という呼び方はいつから?
源平藤橘(四姓)という呼称がはじめて確認できるのは、平安時代の平基親という貴族(公卿)が1200年頃に書いた『官職秘抄(かんしょくひしょう)』という官職の解説書です。
「又外記史不任四姓(源・平・藤・橘)」
と書かれていることから、外記(げき)や史官(しかん)の官職には四姓(源平藤橘)から選ばれることはない」といった趣旨で用いられています。この「四姓」という呼称は中国で有力な4つの氏族を四姓と呼んだことに由来しているとされ、この「日本版・四姓」が源平藤橘だったのだと考えられているのです。
学説でも、平安時代に源清蔭・平伊望・藤原忠平・橘公頼が同時に朝廷の要職に選ばれた後に、この四姓の貴族としての伝統的な勢力の大きさによって定着した呼称だとする説が有力です。
源氏と平家の呼び方の違い
源平藤橘の中でもっとも有名なのは、源氏と平家です。これは源平に関する歴史上の出来事が印象的で、それにまつわる物語が今でも語り継がれているからだと思われます。この時代を舞台にした大河ドラマも多く放映されているので、現代にもファンは多いのではないでしょうか。
しかしここで、源氏は「氏」なのになぜ平氏は「家」なのか、疑問を持つ方も多いはずです。この呼称は平安時代末期の「源平合戦」の構図からきているものと考えられています。
源平は臣籍降下の氏の代表格
源氏と平氏はそもそも、皇族が臣籍、つまり天皇の臣下に下る「臣籍降下」をする際に天皇から下賜された氏でした。古代から現在にいたるまで、天皇や皇族は氏姓(うじかばね)や名字を持たないことから、臣下となる際にはじめて「氏と姓」をつける必要があったということなのです。
この「源」と「平」の氏は臣籍降下にあたって賜姓される氏の代表格だったので、天皇を始祖とした多くの流派が生まれ、地方に下り主に武士となった後から支流も多く分出し、子孫も繁栄しました。
平家=平清盛一門のこと
「平家」とは、平安時代末期に政権を打ち立てた平清盛とその一族、さらにはその家臣たちも含めた政権・軍事の一団のことをいいます。そのため、平家の中には清盛らに仕えていた藤原氏の武士などもいました。
元を辿れば平家は平氏の中でも伊勢を本拠地としていた「伊勢平氏」という流れで、京都で上皇の護衛をしていた平正盛→忠盛にはじまり、独裁政権により権力が全盛期を迎えた平清盛の時代にその一族と血縁のない家臣達も含めて巨大な政治・軍事グループを形成し、それが「平家」と呼ばれていたのです。平清盛や平知盛を始めとする「平(たいら)」と名乗る一族が中心のグループが平家です。
源氏軍=源氏と平氏の連合軍!?
一方の源氏軍の武士たちは、次のような反平家の大連合軍だったわけです。
- 源頼朝や義経などの源氏の武士(源氏)
- 関東に本拠地を持つ坂東平氏(平氏)
- その他の平家政権に反感を持つもの(藤原氏、橘氏、僧兵、その他の豪族たち)
さらに源氏軍の中でも関東の坂東平氏はかなりの勢力・割合を占めていました。ただ、坂東平氏は名字に「平(たいら)」がつかない(北条・梶原・畠山・上総・三浦等)ので、一見して平氏だと分かりづらいという事情はあります。
存在しなかった「源家」
もし「源家(げんけ)」というものがあったとしたら、源頼朝をトップとする鎌倉将軍家のことをいうことになるのだと思いますが、源氏将軍は3代で途絶えてしまいましたし、その後の鎌倉幕府も執権北条氏に代表される「坂東平氏」や比企氏のような藤原氏等、源氏ではない氏族が多かったので「源家」と呼べるようなグループではなかった、というわけです。
源平藤橘が辿ったそれぞれの運命
源平合戦を経て平安時代が終わると、本格的な武家政権が成立した鎌倉時代に突入します。四大姓といわれた源平藤橘の影響力は平安時代中期までの話であり、武士が台頭してくる平安時代後期から先は、源平藤橘の各氏は朝廷(京都)に残って宮仕えをする「公家」や、領地を求めて全国各地に土着する「武家」など、自分たちの所領や居場所を求めて全国に広がり、それぞれの運命を辿っていくことになりました。
次に、源氏、平氏、藤原氏、橘氏、それぞれの栄枯盛衰を順番に紹介します。
源氏|武家の一流ブランド
「源氏」という姓の由来は、中国の古書『魏書』の中で、太武帝が源賀に対して告げた「卿、朕と源を同じくす。事に因って姓を分ち、今、源氏となすべし」という言葉からきていると考えられています。
日本で源氏が誕生したのは弘仁5年(814)、嵯峨天皇が「源」の氏(うじ)と、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位である「朝臣(あそん)」の姓(かばね)を授け、皇子を臣下の籍に降ろしたことがはじまりといわれています。
嵯峨天皇の後にも源氏を賜姓する天皇は多くいたため、21もの流派が存在していたことでも知られています(源氏二十一流)。その中でも嵯峨・清和・宇多・村上源氏の4流派が代表的です。
武家の嫡流といわれた清和源氏
源氏は武家と公家に分かれましたが、村上源氏は公家として続き、嵯峨・清和・宇多源氏は武家として繁栄しました。特に清和源氏は「根拠地+源氏」の組み合わせで摂津源氏、大和源氏、河内源氏、甲斐源氏、信濃源氏など多くの支流が生まれ、“武家の嫡流”ともいわれるほどに栄えることになります。特に河内国(現在の大阪府南東部)を根拠地とする河内源氏からは日本の歴史を代表するような武士達を多く輩出しました。
歴史上有名な源氏武士
- 武士の英雄と崇められた源義家(八幡太郎)
- 本格的な武家政権・鎌倉幕府を樹立した源頼朝
- 室町幕府の初代将軍になった足利尊氏
- 戦国時代を勝ち抜き江戸幕府を開いた徳川家康
このような先例を経て、最終的には征夷大将軍としてふさわしいのは清和源氏の武士、つまり武家の超一流ブランドと世に認識されるようになったのです。源氏について、詳しく知りたい方は、以下の記事をご一読下さい。
もしかして、あなたの先祖は「源氏」かも。意外と多い源氏の子孫。
平氏|歴史の影の実力派
「平氏」の「平」は、始祖である桓武天皇が建設した平安京にちなんで「平(たひら)」と名づけたとする説が最も有力です。当時は皇族の数が増えて財政を圧迫していたため、葛原親王は桓武天皇の孫にあたる、長男の高棟王(たかむねおう)を皇族の籍からはずし臣籍に降下させたいと申し出ます。そして高棟王は天長2年(825)に「平(たいら)」の氏と「朝臣(あそん)」の姓を賜わり「平高棟(たいらのたかむね)」となり、これが平氏のはじまりとなります。
平氏は天皇の孫(皇孫)や曾孫に、一方の源氏は天皇の子供(皇子)に賜姓されるケースが多かったといわれていますが、歴史上では例外的ともいえる様々なケースがあるため、そこまで厳格なルールはなかったと考えられています。
平氏の流派は4つのみ
平氏には「桓武平氏」「仁明平氏」「文徳平氏」「光孝平氏」の4つの流派がありましたが、桓武平氏以外の流派は系図が途絶えてしまいました。このことから「平氏」とは桓武天皇の系統である「桓武平氏」のことを指すことになり、さらには葛原親王の後裔・平高望の流れである「高望流」が主流となり武家として栄えました。
朝廷の脅威となった坂東平氏
平高望流の子孫は京都を離れ関東地方へ国司として下向し、武士として勢力を張りました。そして平将門が反乱を起こし、次に平忠常が反乱を起こすなどして朝廷の脅威にはなったものの、結果的に源氏の武士に鎮圧されたことから源氏の傘下にとどまりながらも、広く関東一円で「坂東平氏」と称される武士団を組織して鎌倉幕府の創立に貢献しました。
平家のルーツ・伊勢平氏
一方、将門に討たれた国香の孫である維衡は伊勢に勢力を広げて「伊勢平氏」と称され、京都で上皇の護衛をする「北面の武士」となり、平氏の主流となります。この流れから平正盛・忠盛を経て清盛が出て「平家」を組織し、保元・平治の乱を鎮圧し源氏を追放すると平氏全盛の時代を迎えることになりました。しかし平家は1185年に「壇ノ浦の戦い」で源氏によって滅ぼされてしまい、平家の落人伝説だけが全国各地に残りました。
鎌倉幕府執権・北条氏
平家が滅びた後は鎌倉幕府執権の北条氏をはじめとする坂東平氏が活躍します。室町時代になると幕府御家人の伊勢氏が平氏を称し、戦国時代には北条氏康で有名な後北条氏が平氏を称していました。坂東平氏の子孫や平家の落人まで、今でも平氏の末裔は多く残っているといわれています。平氏について詳しく知りたい方は以下の解説記事をご覧ください。
藤原氏|日本を代表する大族
続いては「源平藤橘」の中で最大の一族「藤原氏」です。日本を代表する氏族といっても過言ではありません。
藤原氏の由緒
「藤原」の由来は天智8(669)年に中臣鎌足が大化改新に尽くした功績を讃えられ天智天皇(中大兄皇子)から「大織冠」の冠位と「藤原」の氏姓を賜わったことがはじまりです。「藤原」とは現在の奈良県橿原市の地名に由来しています。
源平藤橘の中でも、藤原氏は皇族が臣籍に下る際に賜った氏ではなく、中臣鎌足への恩賞として与えられた氏だったという点に特徴があります。平安時代中期には歴代天皇の外戚となる摂関政治を展開し、公家として繁栄しただけでなく、武家の系統の子孫も全国的に広がった文字通りの「大族」です。
藤原氏のルーツは中臣鎌足
藤原氏は古代豪族である中臣氏(なかとみし)をルーツとして、藤原鎌足の子である不比等(ふひと)が藤原朝臣の姓を賜ったことにはじまります。そして藤原不比等は父・鎌足亡き後、国家の改革を引き継ぎ活躍しました。
藤原4家のうち北家が嫡流に
不比等の後は、その子である武智麻呂が南家、房前が北家、宇合が式家、麻呂が京家を開いて「藤原四家」を成立させますが、結局北家(ほっけ)が有力となって隆盛し、平安時代中期には、摂政・関白・太政大臣を多く輩出し、藤原道長・頼通の頃に全盛期を迎えました。このあたりまでは日本史の授業で必ず習うところです。
平安時代末期から政治への影響力が半減!?
平安時代末期になると院政がはじまり、さらに源氏と平氏に代表される武士が台頭したことから、公家藤原氏の影響力は半減し、日本史の教科書に出てくる機会が減ってきます。さらに鎌倉時代になると五摂家(近衛・九条・鷹司・二条・一条)に家格が固定され、政治の主導権は完全に武士へと移りました。
以後、公家の藤原氏は朝廷という天皇の近くで政治を影で支えながら江戸時代末期に至ります。明治維新後は「五摂家」に次ぐ家格にあった上層公家の多くは華族に、五摂家は最上級の華族である公爵に列せられました。
「藤原氏」というと一般的にはこの公家(貴族)の藤原氏のことをいいますが、武家の藤原氏も藤原利仁や藤原秀郷といった歴史上の有名人を出し、その子孫が全国に広がっていったことで、藤原氏は大族と呼ばれるようになったという歴史があります。家系図作りで重要な藤原氏は武家の方ですので、武家藤原氏について詳しく知りたい方は以下の記事をご覧下さい。
橘氏|隠れた名族
「源平藤橘」の最後は「橘氏」です。橘姓を最初に下賜されたのは、県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)という女官です。三千代は、はじめ敏達天皇の玄孫にあたる美努王に嫁ぎ、葛城王(橘諸兄)・佐為王(橘佐為)・牟漏女王(藤原房前の妻)を生みました。その後に美努王と離別してからは藤原不比等に嫁ぎ、妻として律令体制への改革を影で支えたといわれる女性で、長年の朝廷での貢献が認められ、708年の元明天皇即位に際して橘宿禰(たちばなのすくね)の氏姓を賜り「橘三千代」を名乗るようになりました。
橘氏の由緒
橘は一年中葉が緑であることから、永遠の象徴ともいわれており、日本書紀にも登場する天皇家ゆかりの植物です。元明天皇は大嘗会の席で杯に浮かんだ橘に三千代をなぞらえ、橘の氏を授けたといわれています。
橘氏はこのような美しいエピソードと合わせて、“女帝から女官に”賜姓された点が特徴です。また元々「橘」は県犬養三千代への恩賞として与えられた氏でしたが、三千代と美努王の間に生まれた子、葛城王が臣籍降下した際に母が賜った「橘」を賜ることを許され、葛城王から橘諸兄(たちばなのもろえ)となりました。これにより、橘の氏は臣籍降下の際に与えられた氏ということにもなり、諸兄以降の子孫も橘姓を名乗るようになったため、橘諸兄は橘氏の始祖となりました。
橘氏が最も栄えたのは奈良時代
橘氏の絶頂期は、藤原不比等の息子たち「藤原四卿」の死没後に橘諸兄が躍進して一気に正一位・左大臣まで昇進した740年頃(奈良時代)です。その後は藤原氏との権力争いに敗れることが多く、反映と衰退を繰り返しながら橘氏から公卿を輩出することは徐々に減っていきました。
歌人や学者を多く輩出
橘氏の始祖・橘諸兄や橘三千代も万葉集に和歌が収録されるほどの腕前だったことも影響しているのか、橘氏は政治の世界よりも、橘逸勢(書家)・橘広相(学者)・橘永愷(歌人)・小式部内侍(女流歌人)に代表されるような学術界、文化人を多く輩出した点に特徴があります。
武家の橘氏も細々と活躍
平安時代中期になると、藤原純友の乱の鎮圧で活躍した橘遠保が登場しましたが、平安時代末期になると橘氏の勢力はすっかり衰えて、源平合戦の頃には橘公長と橘公業が源氏方について戦った記録が残されている程度です。
南北朝時代になると橘遠保の後裔を称する楠木正成が登場します。現代に伝わる歴史という点では、この楠木正成が橘氏で最も有名な人物だといえます。橘氏について詳しく知りたい方は以下の解説記事も読んでみて下さい。
源平藤橘の子孫は何人いる?
では、この「源平藤橘」の流れを引き継いでいる日本人はいったいどのくらいいるのでしょうか。
日本国民の約7割が源平藤橘!?
日常的に数多くの先祖調査を行っている私達の実績・感覚値ですが、おそらく日本国民の7割程度は源平藤橘の流れに行き着きます。その他3割には菅原氏、大江氏などの学者の流れ、物部氏、土師氏など古代豪族の流れ、神主の流れなどがありますが、大半は源平藤橘なのです。これは、多くの方が元皇族(源平)や藤原鎌足の子孫・後裔(藤原)であることを意味しています。
いきなり自分が皇族の末裔!?だと聞くと、とても信じられないことにも思えてきますが、歴史人口学の視点からしても、現代人のルーツは古代や中世の名家に行き着く可能性が高いということが証明されています。それは、家系を遡るごとに先祖が“倍々に”増えていくことに関係しています。
自分の先祖は100万人!?
1代先祖を遡ると親が2人、祖父母が4人、曽祖父母は8人…といった順番に遡っていくと、ちょうど10代遡ると1024人の先祖が存在し、さらに20代前になると100万人の先祖がいた計算になります。1代を25年と仮定して計算すると、20代前は約500年前ということになります。歴史的に500年前の日本の人口が1000万人にも届かなかったことを踏まえて考えてみると、自分が著名な歴史上の人物と関係があったとしても何ら不思議なことではないと思えるのではないでしょうか。
さらに、中世から江戸時代までは現代ほど福祉が発達していなかったため、武力や経済力がある家ほど子孫を残す力がありました。社会的にも「家」というものが重要な社会の構成単位となっていたため、昔の日本人は家を絶やすことのないように養子をとったり、側室を持つこと等により子孫を残す工夫を重ねてきた歴史があります。
現代人の先祖は立派だった確率が高い!
子孫を残す力がなかった家は長い歴史の中で廃絶し、淘汰されてしまっていたわけですから、現代まで命のバトンが引き継がれているという事実だけで、今の日本人の先祖は立派な人物だった可能性が高いことになります。
実際に先祖調査をしてみると、(かなり個人差があるものの)歴史上の人物にゆかりを見つけられる可能性は全然珍しいことではありません。身分が固定されていた江戸時代だけではなく、戦国時代・室町時代・平安時代などに目を向けることによって歴史上の人物とのゆかりが見えてくることもあります。まさにこのことこそが先祖調査の醍醐味といえます。
自分のルーツを調べる方法
先祖調査は①名字、②家紋、③本籍地、④家伝 等、幅広く情報を集めて総合的な調査を実施するのが基本となりますが、その中でも名字からルーツを推測する方法は最も手軽な方法です。源平藤橘の名字については、各解説ページで紹介していますので、ご興味のある方は自分の名字を探してみて下さい。
もしかして、あなたの先祖は「源氏」かも。意外と多い源氏の子孫。
自分も歴史の一部であることを再認識できるのが家系図作り・先祖調査の魅力です。さらに、ルーツ探しをすることは、自分が日本人である理由を改めて確認する知的な活動ともいえます。どなたでも一度はご先祖探しにチャレンジしてみることをおすすめします。