日本では、ほとんどの家に家紋があるといわれています。最近では家紋を意識する機会は減っているといわれていますが、お墓等にはきっと我が家の家紋が掘られていることが多いのではないでしょうか。

では、この家紋はいつの時代から、どのような経緯で生まれたのか由来をご存知でしょうか。この記事では、家紋のルーツについてさかのぼり、由来・歴史について解説します。

そもそも家紋って、いったいなに?

あなたは自分の家の家紋が記されたものを、何か一つでも持っていますか? 「自分が入るであろうお墓の墓石」というブラックユーモアを感じさせるコメントが返ってくるかも知しれませんが、それも正解です。和装をされる方でしたら一般的に、家紋付きの着物や羽織、小物などをお持ちだと思います。また、仏壇に家紋が付いているご家庭もあると思います。

しかし、現代において家紋は日常的に馴染みのないものになってしまったのではないでしょうか。家紋とは先祖から代々伝えられてきた家を表す紋章。今風に言えば「家のロゴマーク」です。一方、田中さんという名字の方が皆同じ家紋というわけではなく、同じ名字でも出身地や家系・家業などによって様々な種類の家紋を使っています。そういったことから、家紋は名字以上に家系やルーツを実感できる親しみやすいシンボルと言っていいでしょう。ぜひ大切にして欲しいと思います。

家紋の由来にはいろいろな説があり

そこで、そもそも家紋とは?という疑問をそのルーツから、どうやってわたしたちの先祖が家紋を得たのか、といった由来のことまで紹介していきましょう。

家紋がいつの時代から使われていたのかという問いに対して、公家と武家ではどうやら違いがあるようです。公家については後ほど触れるとして、武家は源頼朝の時代(1192年以降)という説や保元平治の時代(1156年以降)とする説、逆に源頼朝の時代にはそれぞれの家の紋章はまだ使われてなく、旗は真っ白なものが使われたとする説など様々な説がありますが、実ははっきりしたことは分かっていません。恐らく源頼朝時代に武家の家紋はまだなく、これ以降に起こったものではないかと考えられます。

それでは、どのようなルーツで使われ始めたのでしょうか?このルーツについても、公家と武家では違いがあるようです。そこで、それぞれについて考えてみようと思います。

公家と武家では家紋のルーツが違う?

上記でお伝えしたように、公家と武家では、家紋のルーツが違うと言われています。どのような違いがあるのでしょうか?

公家の家紋のルーツ

公家の家紋のルーツについては3つあると言われています。1つ目は牛車です。この牛車に使われていた文様が転じて家紋になったと言われています。西園寺家が牛車に鞆絵(巴)を、徳大寺家が木瓜を、近衛家が牡丹を使っていたとされていますが、後にいずれもその家の家紋とされています。

2つ目は公家が着用していた衣服の文様です。久我家では好んで竜胆だすきという文様を使ったとされていますが、後にこれを家紋としています。最後は、何らかの「理由」により家紋となったというものです。例えば菅原道真は梅を大変愛していたとされていますが、菅原家の家紋が梅鉢紋であるのも、先祖を偲んでという「理由」がルーツとされたものです。

ここで、家紋として用いられたのがいつからなのかについて触れておきたいのですが、実はこちらもはっきりしていません。というのも、牛車を例に挙げると、ただ単に牛車の美しさを表現するためだけに文様が付けられていたのではなく、他家の牛車と区別できるようにするためにも付けたのだとされています。

その文様は、まず対外的に自分の家の文様であるとして知らしめ、他家には使わせないようにする。その後、これを自分の家の子に限り受け継がせていく。このような使い方って、すでに家紋と同じ使い方ですよね。ですので、特に意識せず文様として使われ始めたものが、どの段階で家紋として使われるようになったのかがはっきりしないのです。ただ1つ言えることは、明らかに家紋としての性質を持っていたということです。以上が公家の家紋のルーツです。

武家の家紋のルーツ

次に、武家の家紋についてです。武家の家紋は戦場などで敵味方の区別ができるよう、主として旗や幕に目印として描かれたものですが、中には公家と同様、衣服の文様がルーツとされたものもあるようです。

旗をルーツとしたものとして、武蔵国の兒玉党が挙げられます。この時代、源氏は白旗、平氏は赤旗が使用され武家の棟梁はまだ紋章を用いられていなかったようですが、兒玉党が旗に団扇(うちわ)の紋を入れたように、諸国の武士の中には自分の家の目印として旗に紋章を入れた者もあったとされています。後にこの旗の紋章を家紋としたのがこの場合です。

次に、幕の紋を家紋として使われるようなったのが、新田氏の大中黒や足利氏の二引両だと言えます。その形状から見ても明らかであるとされています。最後に衣服の文様を家紋とした者に佐々木氏の目結紋があります。佐々木氏は鎧直垂(よろいひたたれ)に三目結が縫われていたとされますが、後にこれが家紋として使われるようになりました。

これらのように、武家の場合は主として旗や幕、また衣服の文様から起こったことが分かります。

長くなりましたが、公家と武家の家紋のルーツは以上です。

家紋の由来は権威の象徴から庶民の憧れへ

最初は、名字の代わりの目印として作られた家紋も、戦がなくなり天下泰平の江戸時代に入ると、家紋はまさに武家の権威を象徴するものとなり、例の「この紋所が目に入らぬか!」「ハハ~っ(と言って一堂ひれ伏す)」となったわけです。地方の大名にとっても家紋は格式を表すシンボルとなって、羽織からご老公様の印籠といった調度品にまで家紋が印されるようになりました。

また、参勤交代の時など、諸大名が江戸に来る時や登城をする際に誰なのかを知る必要がありました。そこで役立つのが家紋なのです。服装には必ず家紋が付けられました。特に、家格により礼儀作法が異なったようで、参勤交代の途中遭遇した場合に失礼な対応をしないよう予め家紋を知っておく必要があり、その家臣の中には必ずと言っていいほど諸大名の家紋を熟知したものがいたとされています。

家紋を見ただけでどの大名かわかる

さらに、幕府においても大手門に下座見役という役人をおいて、家紋を見ただけでどの大名が登城してきたのか確認できるようにしていたようです。このように、役人が諸大名の家紋に精通しているのは、公務上絶対必要なスキルであったとされています。

また都市の大店、サービス業などに従事する町人にとっても、武士の格式を瞬時に見極めて、それなりの対応をしなければたいへんなことになるわけで、そのために諸大名の家紋をまとめた大名紋盡(だいみょうもんづくし)という書物をはじめ、武鑑という大名や幕府役人の氏名・石高・俸給・家紋などを記した年鑑形式の本で年毎に発行され、明治に至るまで刊行されていたということです。

徳川幕府の五代将軍から変化が

徳川幕府も五代将軍綱吉の元禄年間(1688年~1704年)になると、政治・経済が安定します。それによって町人の暮らしぶりもよくなり、町人文化や上方文化が開花しました。歌舞伎や浄瑠璃、狂言といった現代で言うところの伝統芸能が盛んになり、役者や花街の芸者衆が競うように家紋を付けます。それが浮世絵などで拡散すると、瞬く間に町人の間で大流行したのだそうです。

いわゆる、伊達紋と言われる花鳥、山水、文字などを図案化して作った派手な家紋や加賀紋と言われる彩色した紋で草花などを図案風に描いた美しい紋が使われ始めたのもこのころです。もはや、名字の目印といった性質や威厳を象徴するようなものではなくなり、装飾用として用いられるようになりました。

この頃になると町人なども羽織や袴を身につける者が多くなり、武士や役者を真似て家紋を付けるようになります。どんな家紋を付けるのも自由、「紋上絵師(もんうわえし)」なる家紋専門のデザイン業まで登場して引っ張りだこだったそうです。

最初はファッション感覚で贔屓の役者や、武家の家紋をアレンジしていた大衆は、やがて武家に倣って家の紋として次の世代に引き継ぐようになっていきます。識字率が現代ほど高くなかった江戸時代にあっては、自分のアイディンティティを視覚的に確認できる家紋の存在は、今以上に貴重なものだったのかもしれません。

名字とともに国民全員が家紋も得た明治時代

封建制が解かれ、明治時代になるとすべての者が名字を名乗ることとなり、家族や家系に対する一体感が強くなりました。初めて本格的な戸籍が編製されたのも明治5年のこと。まだ家紋を決めていなかった者も、名字とセットのように家紋を決め、礼装や墓石などに印したといいます。

明治時代初期にすべての世帯に普及した家紋からは、江戸時代へと繋がる家系が見えてくるはずです。さらに、家紋の紋様をじっくり調べると、暮らしていた場所の大名や領主、昔の職業、あるいは贔屓にしていた歌舞伎役者がわかるかもしれません。どこかロマンを秘めた家紋の由来、ぜひ楽しんでみてはいかがでしょうか。