はじめに
2022年のNHK大河ドラマは『鎌倉殿の13人』でした。本作品は、鎌倉時代に鎌倉幕府の執権を代々務めた北条得宗家の2代目執権・北条義時と12人の御家人衆と呼ばれる人々を主人公に描いた作品です。
今まで放送されてきた平安~鎌倉時代を題材とした大河ドラマでは、源氏と平家の戦いを描いたものが非常に多く、源頼朝や源義経、平清盛などが主人公に据えられてきました。『鎌倉殿の13人』では、俳優の小栗旬さんを主役に据え、源氏と平家、そして朝廷の思惑に翻弄されていく北条義時と有力御家人との邂逅を描いた作品となっています。
大河ドラマ以外では、『週刊少年ジャンプ』で絶賛連載中の「逃げ上手の若君」の主人公・北条時行も北条得宗家の末裔となります。時行は南北朝時代に活躍した武将で、信濃国諏訪の名族・諏訪氏に助けられながら、北条家の再興を目指しました。
この記事では、近年注目が集まっている執権・北条得宗家とはどういった一族なのか、そして現代に残る北条得宗家のルーツやいくつかのエピソードを交えながら解説します。
目次
北条得宗家とそのルーツ
「得宗(とくそう)」とは、北条氏の嫡流のことで、鎌倉幕府の歴代執権の中でも嫡流と当主のことを呼びます。ちなみに「得宗」という名称は、第2代執権・北条義時の法号から取られたといわれています。ただし、史料上では、北条氏嫡流の当主を「得宗」と指した例が少なく、あくまで行政用語であったとも考えられています。
北条氏の家紋・三つ鱗
北条氏は三つ鱗を家紋としていますが、伝説によると、初代執権・北条時政が江の島に参籠したときに得た龍神の3つの鱗に由来しているといいます。
ちなみに任天堂からTVゲームとして発売され、大ヒットシリーズとなっている「ゼルダの伝説」にも三つ鱗をモチーフとした「トライフォース」という秘宝が登場しますが、これはゲーム開発者の横井軍平氏が北条氏の末裔だったことに由来するという説があります。
北条氏と平氏
北条氏は第50代天皇である桓武天皇の末裔にあたる平氏の一族と言われています。元々は、伊豆国田方郡北条(現在の静岡県伊豆の国市)を拠点とした在地の豪族で、平直方を始祖としています。ただし異説も多く、出自については現在でも研究者たちの間でも大いに議論されている部分でもあります。また「北条」の姓は、古代の条里制から取られたと云われています。
歴代執権と得宗
得宗と執権は同一ではない!?
鎌倉幕府の執権職は北条氏が歴任していますが、初代執権の北条時政を初代に数え、2代義時から赤橋守時までの16代を数えます。ただし、「得宗」と「執権」は同一ではなく、3代泰時まで同様で、得宗は嫡流の時氏が継ぎますが、時氏は執権に就いておらず、執権は経時が4代を継いでいます。そのため、得宗は執権とは異なり、9代しかいません。
執権政治から得宗政治へ
執権職のその後については、病気を理由に出家した5代執権時頼は、嫡男時宗が幼かったことから、北条一門の長時に執権を譲り、時宗の後見人とし、実権は自らが握るという方策をとっていました。この時頼の時代から、執権政治から得宗の政治へと移行していき、執権は飾り物のような扱いを受けていました(得宗専制体制)。9代執権貞時も嫡男高時が元服するまでの間、師時、宗宣、煕時、基時を中継ぎの執権とし、幕府における得宗の優位性が高くなっていました。
蒙古襲来(1274年)
1274年・1281年の蒙古襲来(元寇または文永・弘安の役)以降は、得宗家の御内人(有力御家人)の影響力が強くなり、得宗と周辺の御家人による合議での決定がそのまま幕府の政策となっていきました。こうしたことから、泰時の設置した評定衆の意味も薄らいでいくことになります。
貞時の時代には、内管領の平頼綱の影響力が強くなった結果、霜月騒動(1285年)によって有力御家人の安達泰盛が滅ぼされ、さらには頼綱自身も平禅門の乱(1293年)で滅ぼされました。そして、高時の時代には、その実権が内管領の長崎円喜・高資父子などに握られ、鎌倉幕府は徐々に弱体化し、滅亡へと進んでいきました。
“逃げ上手”の北条時行
この記事の冒頭で紹介したマンガ「逃げ上手の若君」の主人公「北条時行」という人物は一般的に有名ではありません。しかし、鎌倉幕府滅亡時に滅んだ北条得宗家の再興を図るために奔走した、知る人ぞ知る人物です。北条得宗家の最終走者を努め、歴史上でも稀有な人生を歩んだともいえる「北条時行」について、その生涯を覗いてみましょう。
後醍醐天皇の倒幕計画と鎌倉幕府の滅亡(1318年)
蒙古襲来のころの8代執権・時宗が天皇の即位へ介入したことによって分裂した皇室の持明院統・大覚寺統は、さらに大覚寺統内で嫡流の邦良親王(後二条天皇の嫡男)派ともうひとつの後醍醐天皇派に分かれて対立していました。そして、朝廷の各派はこれらの争いの調停を幕府に求めたため、幕府は朝廷内の争いに巻き込まれていくことになってしまいました。
大覚寺統の後醍醐天皇は文保2年(1318)に即位し、親政を開始しました。後醍醐天皇は二度の倒幕計画を企みますが、全て失敗に終わっています。しかし、この倒幕の機運は悪党と呼ばれる武士団を刺激、各地で反幕府の兵を挙げるようになりました。倒幕の機運のなかで、足利尊氏や新田義貞、楠木正成といった武士たちが活躍し、各地で北条得宗家率いる鎌倉幕府軍が蹴散らされていきました。
新田義貞は大軍で鎌倉に対し攻撃を開始し、防戦する幕府軍との間で激しい攻防戦が繰り広げられました。この戦いの中で鎌倉幕府軍の有力武将が相次いで戦死・自害していき、北条高時・金沢貞顕ら一族・家臣283人が菩提寺の東勝寺に集合し、寺に火を放って自害したことで鎌倉幕府が滅亡しました。
中先代の乱と「逃げ若」の最期(1335年)
中先代の乱は建武2年(1335)7月に北条得宗家の末裔である北条時行が御内人の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱のことをいいます。
建武2年(1335)に時行が東国で足利直義を破ったという情報が京都に伝わり、足利尊氏は時行征伐のため東国に向かおうとしますが、後醍醐天皇はこれを認めませんでした。尊氏は結局許可を得ないまま、出陣することになりました。
時行らは尊氏を迎え撃つ準備をしていましたが、出陣の直前に台風に遭ったため、鎌倉の高徳院に避難しました。しかし、不幸なことに高徳院の大仏殿が倒壊し、500余人の兵が事故死しています。
時行方は奮戦していましたが連敗を重ね、鎌倉へ後退していきました。最終的に時行は鎌倉に追い詰められ、直臣たちは次々に自害したと伝わっており、その一方、時行自身は鎌倉脱出に成功し、落ち延びましたが、その後も時行は鎌倉の奪還を三度繰り返し、最期は尊氏に打ち破られ、処刑もしくは行方不明となったと伝わっています。
北条得宗家の子孫たち
足利尊氏によって、北条時行が破れ、北条得宗家は滅亡しましたが、多くの異説があり、時行の子孫といわれる人びとが各地に残っています。こちらでは、時行の子孫を称していた横井氏について解説したいと思います。
北条時行と横井家
『群書類従』に所収されている戦記物の『豆相記』(一説に1600年前後成立)には、『佐野本系図』と同様の時行が伊勢に渡ったとする伝承を記し、さらに時行の子が行氏、その子が時盛、その子が行長、そしてその子が氏盛すなわち後北条氏の祖である伊勢宗瑞(北条早雲)であると書かれています。
また、愛知県郷土資料刊行会が編纂した『尾陽雑記(びようざっき)』では、時行と熱田大宮司家の女の間に生まれた時満(または行氏)の子である北条時任が愛知郡横江村に居住し、さらにその孫で赤目城主の横井時永を横井氏(横江氏)のはじまりとしています。横井時永の末裔は、尾張徳川家の家老となり、代々4000石を領していました。幕末の横井家惣領だった横井時保は、藩内抗争に巻き込まれ、切腹を賜っています(青松葉事件)。
このほかにも、幕末の福井藩主松平春嶽の政治顧問として活躍した横井小楠や小田原城主北条氏の第2代・北条氏綱の正室であった養珠院(横井氏)、信濃国には時行と巫女の子の子孫と称する家が複数みられ、北条時行の末裔が全国的に広がっていました。
岡野家(北条時行の子孫とされる田中泰行の末裔)
北条時行の末裔とも言われていますが、定かではありません。末裔の泰行が伊豆国田方郡狩野庄田中郷を領したことで、田中姓を称し、その子融成が板部岡姓に改め、その後豊臣秀吉の命令で岡野姓に改めました。融成は「板部岡江雪斎」の名前でも知られ、小田原北条氏の軍師として活躍しました。岡野家は8つの系統に分かれ、一族が繁栄しました。
平野家(北条時行の孫の時任の末裔)
北条時政の十三代孫である横井越前守政持の末裔です。政持の女が平野氏に嫁ぎ、その中の平野邑の所領を譲り受けたことから、平野姓を名乗りました。その後平野氏は北条氏康→織田信長→豊臣秀吉に仕え、中でも秀吉に仕えた平野長泰は「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられています。江戸時代を通じて交代寄合であり、明治維新後に大名格が認められ、男爵の爵位を叙されています。
北条得宗家と後北条氏は別系統!
小田原城主だった後北条氏は室町幕府の官僚であった伊勢長氏が相模国小田原に拠点を移し、その息子氏綱が北条得宗家にあやかって「北条氏綱」を名乗るようになりました。その後氏綱は父の伊勢長氏を「北条早雲」とし、後北条氏の初代としました。後北条氏はその後氏康→氏政→氏直と続き、豊臣秀吉の小田原征伐によって滅ぼされましたが、氏康の子氏規の系統が河内国狭山藩主となり、現代まで続いています。
北条得宗家と後北条氏は同じ姓なので同族と勘違いされがちですが、実は別の系統になります。
北条得宗家以外の子孫たち
北条氏の末裔というのは、得宗家だけではありません。江戸時代後期に編纂された『寛政重修諸家譜』には、江戸幕府に仕えた旗本たちが系統ごとに分類され、家の由緒と系譜が記されています。その中には北条氏の末裔を称している家も掲載されています。ここでは得宗家以外の鎌倉北条氏の末裔を見ていきたいと思います。
三賀家(六波羅探題北方を務めた北条氏の末裔)
北条越後守仲時(最後の六波羅探題北方)の二男七郎頼仲の後裔が伊勢国三賀村に住んだことから、「三賀」を名乗ったとしています。甲府藩主だった徳川綱重(5代将軍綱吉の兄)に仕え、その子家宣が将軍になると、そのまま幕臣になりました。
金沢家(金沢北条氏の末裔)
金沢文庫で有名な称名寺を中心として、栄華を誇った金沢北条氏の末裔で、万治元年(1658)当時の当主安左衛門正法が火消与力として召し抱えられ幕臣となりました。
赤橋登子(足利尊氏の妻)の末裔
そのほか、足利尊氏の妻赤橋登子は16代執権赤橋守時の女で、二人の四男基氏は鎌倉公方家となりました。後に古河公方家と小弓公方家に分かれますが、小弓公方家の足利国朝と古河公方家の氏姫が結婚し、その末裔は喜連川藩主喜連川家として、現代まで脈々と受け継がれています。また、喜連川家からは高家の宮原家が出ています。
あなたも北条氏の末裔かも!?
このように鎌倉北条氏の末裔は全国に広がりましたが、その多くは関東や中部地方にその末裔が多いと言われています。特に北条氏の末裔であることを誇りとしていた一族が多く、代々「時」を名前に使ったり、「三つ鱗」を家紋としていたりしていました。現代でも北条氏の子孫はどこかに生きていることになります。ここで、鎌倉北条氏の子孫の傾向をまとめてみましょう。
鎌倉北条氏の末裔の傾向
地 域 | 関東や中部地方 |
苗 字 | 北条・北條・横井・平野・三賀・金沢・岡野など |
家 紋 | 三つ鱗・丸に三つ星・丸に三つ巴・(三がつくもの) |
一般的にはこのような傾向が見られます。現在でも「北条」「北條」「横井」「平野」「三賀」「金沢」「岡野」などの苗字を名乗っている一族は鎌倉北条氏の末裔の可能性が高まります。
滅亡した一族の歴史は埋もれがちなものですが、子孫が一族の誇りを忘れずに苗字や家紋に名族の面影を残しているケースは多くあります。鎌倉北条氏は滅亡してから700年近くが経っており、長い年月の中で苗字を引き継がれなかったケースも多いと考えられます。そのため、上と違う苗字を名乗っている場合でも十分末裔の可能性はあります。
私達が日常的に行っている先祖調査の現場でも、北条得宗家の末裔とはいわないまでも、鎌倉幕府の有力御家人の子孫だったことが判明したケースもあります。
このように、大河ドラマに出てくるような歴史上の人物との関係が明らかになることは決して珍しいことではありませんので、もし北条氏ゆかりの家伝があったり、家紋・苗字・居住地に共通点がある場合は、是非一度ご先祖を調査してみることをおすすめします。
参考文献
国史大辞典編集委員会 編 『国史大辞典』
奥富敬之 著 『鎌倉北條氏の基礎的研究』
近藤成一 著 『鎌倉時代政治構造の研究』小川義雅 著 『尾陽雑記』
堀田正敦 編 『寛政重修諸家譜』