歴史を学んだ方が「藤原氏」と聞くと、一般的に公家(貴族)のイメージを持つ方が多いのではないでしょうか。確かに藤原氏は公家として最も繁栄した一族ですが、武家の藤原氏の子孫が繁栄したことは意外と知られていません。

もっとも、庶民の家系図作り・ご先祖探しで重要なのは「武家藤原氏」になります。武家(武士)のイメージでいうと源頼朝の「源氏」や平清盛の「平氏」が一番に思い浮かぶと思いますが、武家藤原氏にルーツを持ち、地方に下った藤姓の名字は100を超えるともいわれています。今でも「藤」がつく名字が多く使われていることからしても、最も子孫が繁栄した一族が武家藤原氏だといっても過言ではありません。ということでこの記事では、庶民の家系図作りで重要な武家藤原氏の歴史と名字、さらに自分が藤原氏であるか調べる方法について解説します。

藤原氏とは

藤原氏は、1300年以上にも及ぶ歴史があり、また数多くの支流を出した、日本の代表的な氏族です。古代日本の中央豪族である中臣氏(なかとみし)をルーツとして、平安時代中期には歴代天皇の外戚となる摂関政治を展開し、公家として繁栄しました。「藤原氏」というと一般的にはこの公家(貴族)の藤原氏のことをいいます。

源平藤橘の「藤」が藤原氏

氏(うじ)には代表的なものとして源氏・平氏・藤原氏・橘氏等があり、その4つの頭文字を並べて「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」(四姓)と呼ぶことがあり、日本人の多くはこの源平藤橘のゆかりがあるといわれています。藤原氏についてはこの源平藤橘のうちの「藤」にあたり、さらに最も歴史が長い点が特徴です。加えて、中臣鎌足(藤原鎌足)という飛鳥時代の政治家をルーツとしていて、皇族の子孫(賜姓皇族)を始祖としていない点も藤原氏の特徴といえます。

藤原氏の長い歴史

群書類従 大織冠傅

藤原氏のはじまりは飛鳥時代(669年)

「藤原」という名は、大和国藤原(現在の奈良県橿原市高殿町あたり)にちなんだものといわれています。飛鳥時代(690年頃)にはこの地で「藤原京」という都市も営まれ、古くからとても縁起がいいとされていた場所です。大化の改新の功労者である中臣鎌足(なかとみのかまたり)が死に際(669年)に天智天皇(中大兄皇子)から「大織冠」という、当時最上級の冠位と「藤原」の姓を賜り、死後は「藤原鎌足(ふじわらのかまたり)」と呼ばれるようになりました。このことから、藤原氏はルーツを辿ると例外なく藤原鎌足に行き着く流れということになります

藤原鎌足の子・不比等

藤原鎌足が亡くなった後は、その息子・藤原不比等(659-720年)がその改革を引き継ぐことになり、臣下として最高位である朝臣(あそん)の姓(かばね)を賜ります(684)。藤原朝臣(ふじわらのあそん)の姓を賜ったのは藤原不比等がはじめてだったことから、藤原氏の実質的な始祖は藤原不比等ともいえます。この不比等は俗に言う「親の七光り」ではなく、数々の改革を実力で主導した極めて有能な人物だったといわれています。

藤原不比等の功績

  1. 飛鳥京〜藤原京〜平城京への遷都を主導
  2. 日本初の本格的な法律「大宝律令」を制定
  3. 日本初の歴史書、古事記・日本書紀の編纂

このように不比等は父である鎌足に負けず劣らずの功績があり、父の改革を引き継ぎ古代日本の礎を築いた稀代の政治家といっても過言ではないほどの人物でした。同時に天皇家との関係を深め、藤原氏という華麗なる一族を確立し、時代を動かすまでの権力を得るきっかけを得ました。さらに妻は「橘三千代(たちばなのみちよ)」という、源平藤橘の「橘(たちばな)」の氏を賜った当時の政権中枢の人物でもありました。

不比等の死(720年)

不比等は死後に「太政大臣(だいじょうだいじん)」という臣下として最高位の冠位を賜り、父鎌足に続き親子二代での黄金時代を築きました。その後の藤原氏の命運は、4人の息子である藤原4兄弟(藤原四家)に託されることになります。

藤原四家で分かれた明暗(720年頃)

藤原四家

家 名 家 祖
1.南家(なんけ) 武智麻呂(むちまろ)
2.北家(ほっけ) 房前(ふささき)
3.式家(しきけ) 宇合(うまかい)
4.京家(きょうけ) 麻呂(まろ)

藤原不比等の4人の息子である武智麻呂、房前、宇合、麻呂はそれぞれ独立して4つの家に分かれ朝廷に君臨していましたが、人口の30%が死亡したといわれる天平の疫病(天然痘)大流行(737年)により、なんと4兄弟全員が亡くなってしまいます。4人とも子供はいましたが、まだ幼かったため橘諸兄(橘三千代と美努王の子供)が一時的に政権を担当することになり、橘氏は一時的に勢いを持つことになります。しかし名門藤原氏の子孫達によって橘氏は排斥され、また藤原氏が政権の中枢に君臨し始めます。

藤原四家のうち、宇合(式家)と麻呂(京家)の流れは早々に途絶えてしまい、家が続いたのは武智麻呂(南家)と房前(北家)の流れのみでした。特に房前(北家)の流れは奈良時代には大きな勢力ではなかったものの、平安時代に入ってから内麻呂(うちまろ)や冬嗣(ふゆつぐ)等の有力な人物が出て氏長者(藤原氏族のトップ)となり、藤原氏の流れの中で最も栄えた一族となったのでした

藤原道長の摂関政治全盛期(1000年頃)

平安時代中期の藤原氏の勢力は、天皇家と姻戚関係を結ぶ「摂関政治」「他氏排斥運動」を積極的に行うことで地位を確実なものにしていきました。源氏や平氏が武士として力を持ち始める前の時代、藤原道長の時代(1000年頃)に全盛期を迎えます。つまり、藤原北家は朝廷での権力闘争に勝ち続けた一族だったのです。

この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば

この和歌は当時の藤原氏の勢いを象徴する大変有名な歌ですから、ご存知の方も多いと思います。

武家政権の誕生・公家の衰退(1160年頃)

しかし、栄花を極めた公家藤原氏の勢いも長くは続きませんでした。平安時代末期に上皇が直接政治を行う「院政」が始まると(1086年)、藤原氏が代々務めた摂政関白の意義が薄れることになっていきます。さらに平清盛や源頼朝が樹立した武家政権の誕生に合わせて、公家は京都の「朝廷」という小さな世界を保つに過ぎない存在となり、この時代から歴史の教科書に藤原氏が登場する頻度も減ってくることになります。

公家の家格の固定(1252年頃)

鎌倉時代には幕府の政策により藤原道長の流れから近衛・九条・二条・一条・鷹司の五つの家(五摂家)に分かれ、公家の家格が固定されました。そしてこの五摂家こそが藤原氏の嫡流であり、現代にまでつながる狭義の藤原氏(公家)ということになっています

平安時代末期から政治の実権は失ったといっても、公家藤原氏は天皇家に最も近い場所で日本の政治を長い間支え続け、戦後の華族制度の廃止に至るまで数々の特権を持っていた歴史ある一族であることには変わりありません。この公家藤原氏とその名字については、以下の記事で詳しく解説していますので、興味のある方は是非ご一読下さい。

藤原氏の主な流派

藤原氏の流れ

公家

  • 藤原北家道長流(近衛家)<嫡流>

武家

  • 藤原北家利仁流(斎藤氏・加藤氏)
  • 藤原北家秀郷流(佐藤氏・近藤氏・奥州藤原氏)
  • 藤原南家為憲流(工藤氏)
  • 藤原北家山蔭流(伊達氏)△
  • 藤原北家隆家流(菊池氏)△
  • 藤原北家道兼流(宇都宮氏)△
    注)△マークは異説が多く、信憑性に疑義がある流れを表しています

こうして藤原氏の主な流派を一覧で整理してみると、意外と公家以外にもたくさんの支流があるということがおわかりいただけると思います。

家系図作りでは武家藤原氏の方が重要!

藤原北家は藤原四家の中で最も繁栄し、藤原道長の流れから五摂家を出したことで有名な嫡流ですが、これはあくまで“日本史上で”重要なだけで、庶民の家系図作りを行う上では実はそこまで重要ではありません。公家藤原氏の家系図は時の政権によってしっかりと管理され、今に伝わってきているので、新しく調べる余地も少ないものなのです。これからゼロからルーツを調べる庶民の家系図作りで重要な藤原氏は、全国に広がった“武家”の藤原氏になります

全国に広がった武家藤原氏

日本地図

平安時代、藤原道長に代表される上流貴族が京都で栄花を極める一方で、中流階層の藤原氏のなかには、出世を諦めて国司(こくし)として地方に下る藤原氏も多くいました。彼らは任期が過ぎた後も京都に戻らず、地方の豪族の娘と婚姻したりして、血筋と武力をもってその場所で勢力を持つようになりました。これらの中には、中央政界(京都)の藤原氏と区別するため、特に「〇〇の藤原氏」と称する支流の家・名字も出てきました。この代表的なものが「藤」がつく代表的な名字を総称した「十六藤(じゅうろくとう)」です。

十六藤

佐藤・斎藤・須藤・内藤・神藤・安藤・伊藤・遠藤・加藤・工藤・後藤・尾藤・武藤・近藤・進藤・春藤

「藤」がつく名字はこれらの名字以外にもたくさんあるため、知人友人にも必ず一人は心当たりがあるのではないでしょうか。ちなみにこれらの「藤」がつく名字は全て、藤原氏嫡流(公家)ではなく、その枝になる武家藤原氏(または神主など)の流れです。このような藤原氏にゆかりがある名字は100種類以上存在するといわれていて、藤が頭にあるのは西日本、下にあるのは東日本に多いという特徴があります。藤がつく名字がたくさん存在して今でも使われていることが、藤原家が全国に広がり繁栄したことの歴史的証明ともいえます。ただ、数が増えすぎて藤原氏に関係のない人々も系図をこっそり藤原氏につなげるようなケース(仮冒)も見られたことには注意が必要です。

武家藤原氏の主流は魚名の流れ

藤原魚名の流れ

庶民の家系図作りで最も重要な藤原氏は、藤原北家から出た藤原魚名の流れです。この魚名の流れから、全国に子孫が広がった武家藤原氏の祖ともいえる藤原利仁(としひと)や藤原秀郷(ひでさと)を輩出したからであり、いわば武家藤原氏の主流といえます。それでは藤原北家の魚名の流れを順番に紹介していきます。

北陸の英雄・藤原利仁(910年頃)

北陸の英雄・藤原利仁

藤原魚名の5代後の藤原利仁(ふじわらのとしひと)は北陸・越前国(福井県)に勢力を持った平安時代中期の軍事貴族で、鎮守府将軍(軍事長官)をも務めた藤原時長の子として生まれた、いわば軍事エリートの出身でした。妻も越前国の豪族の娘であり、かなりのお金持ちだったといわれています。

藤原利仁のお金持ちエピソードとして、芥川龍之介の小説の題材になった「芋粥」の説話は有名です。それは利仁が若い頃、(身分は高いがお金がない)五位の者に芋粥を腹いっぱい食べさせようと、京都から敦賀の自分の舘へ連れて行ったものの、五位の者は大量の芋粥を見ただけで満足してしまったという話です。藤原利仁は知らなくても、芥川龍之介の「芋粥」はご存知の方も多いのではないでしょうか。ご存じない方は、以下のリンクから説話を一度読んでみて下さい。

国立国会図書館のページ芋粥の説話(将軍と太夫殿):孝子画噺(外部サイト)

利仁は越前国に住みながら、藤原摂関家(京都)にも勤めて、延喜11年(911年)には上野国(群馬県)の国司となり、以後、上総(千葉県)・武蔵(東京・埼玉県)など関東地方の国司を務めました。平安時代の治安悪化の根源である群盗の鎮圧に活躍した記録が『鞍馬蓋寺縁起』にあり、晩年には父と同じく鎮守府将軍に任命され、親子2代にわたって軍事のトップを務めた、当時の武家藤原氏のエリート一族といえます。

藤原利仁の子孫

藤原利仁の子孫は繁栄し、とても数も増えたので特別に「利仁流藤原氏」とも呼ばれるようになりました。代表的なのは加賀国(石川県)を中心に越前国(福井県)・能登国(石川県能登半島)・越中国(富山県)にまたがって勢力を誇った斎藤氏、さらに「加賀の藤原」という意味から起こった加藤氏をはじめとして、林氏・豊田氏・板津氏・倉光氏・富樫氏・進藤氏・竹田氏・疋田氏・吉原氏・安原氏・赤塚氏など、数々の一族を輩出しました。「斎藤」や「加藤」は今でも多く見かける名字ですが、基本的にこの藤原利仁に(血のつながりはともかくとして)ゆかりがあると考えてよいと思います。

利仁流藤原氏の名字一覧

斎藤・豊田・進藤・林・竹田・富樫・河合・後藤・加藤・吉原・太田・堀・石浦・河崎・松任・匹田・赤塚・熊坂・長井・千田

関東の名将・藤原秀郷(930年頃)

関東の名将・藤原秀郷

藤原秀郷(ふじわらのひでさと・別名:俵藤太)は平安時代中期の武将で、藤原魚名の曾孫でもある祖父豊沢の代から下野国(栃木県)の国司を務める家系でその地に土着した一族と考えられています。先に紹介した藤原利仁の関東の地盤を引き継いだともいわれている武士です。

この藤原秀郷を一躍有名にしたのは、平貞盛と協力して平将門の乱を鎮圧したことでした。この功績により、下野国だけでなく上野国(群馬県)と武蔵国(東京・埼玉)の国司にも任命され、関東で第一の武将といわれるようになりました。

さらに室町時代になると、豪勇の秀郷が近江三上山の大ムカデを退治し、富と将軍の地位を得るといういわゆる「俵藤太物語」が広まり、御伽草子(おとぎぞうし)や絵巻として人々に後世にわたって親しまれる存在となりました。俵藤太の百足退治を知らない方は、以下のリンクから読んでみて下さい。

国立国会図書館のページ藤原秀郷の百足退治伝説:これは面白い旅の道づれ(外部サイト)

藤原秀郷の子孫

秀郷流は名字一覧をみてもわかるとおり、藤原氏の中で最も子孫が繁栄したといっても過言ではなく、秀郷流藤原氏とも呼ばれます。まず息子である藤原千晴(ちはる)の流れからは岩手県平泉に勢力を誇った奥州藤原氏、さらに千常(ちつね)の流れからは佐藤氏・首藤氏・後藤氏・伊賀氏などを出した佐藤一族をはじめとして、近藤・島田・大友・武藤・少弐などを出した近藤氏族、小山氏・長沼氏・結城氏などが出た小山氏族など、秀郷流藤原氏の子孫は「俵藤太物語」の伝説とともに全国に広がっていきました。このように「佐藤」「近藤」「後藤」「内藤」などの名字は、この藤原秀郷にゆかりがあることになるのです。

秀郷流藤原氏の名字一覧

佐藤・尾藤・後藤・武藤・首藤・内藤・進藤・白川・須藤田原・亘理・鎌田・蒲生・足利・淵名・佐野・山内・大友・太田・長島・前原・柴田・高柳・園田・富田・寺内・小倉・大屋・鍋島・錦戸・泉・波多野・島田・松田・長沼・河内・伊賀・小山・結城・中沼・池田・小郷・近藤・皆川・河村・淡路・時古・林・久賀・阿曽沼・南摩・鹿沼・田沼・岩佐・新荘・増山・関・下河辺・網戸・幸島・田村・中野・南池・大河戸・大川・薬師時・神谷・山越・舟越・戸室・木村・桐生・西場・中田・岡・那珂・江戸・神馬・大胡・益田・小川・吾妻・加川・藤岡・寒川・須永・赤荻・赤堀・山上・大抜・篠崎・利根・柏木・榎本・天沼・諸野・舘野・片倉・矢島・桂野・青柳・出井・市橋・三橋・田子・武沢・小曽根・平泉・樋爪・多久・村田・室木・小谷・外島

南家為憲流・工藤氏(940年頃)

工藤氏の祖・藤原為憲

武家藤原氏といえば北家から出た藤原秀郷(秀郷流)、藤原利仁(利仁流)が主流ですが、藤原南家(武智麻呂)の流れの藤原為憲(ふじわらのためのり)も地方(関東・常陸)に下り、武家となりました。藤原為憲は藤原秀郷と協力して平将門の乱を鎮圧し、当時の官職である「木工助(もくのすけ)」から「工」をとり「工藤(くどう)」を称し、工藤一族の祖となります。この工藤姓から二階堂氏・伊東氏・伊藤氏・吉川氏・相良氏・宇佐美氏・天野氏など多くの支流が生まれました。今でもよく見る「伊藤」や「工藤」は、この南家為憲流から出た名字ということになります。

南家為憲流藤原氏の名字一覧

工藤・二階堂・中川・小出・岡部・鮫島・原・入江・伊東・伊藤・吉川・相良・宇佐美・天野・川井・井伊・田頭

自分が藤原氏である確率は?

今でも馴染みのある名字がたくさん出てきたことからわかるように、藤原氏は全国に広がり繁栄した一族ですので、その子孫も全く珍しい存在ではありません。自分が自覚なく藤原氏である確率も意外と高いはずです。しかしその多くは公家ではなく武家である秀郷流藤原氏か利仁流藤原氏です。自分の名字に「藤」がついている場合は、まず武家の藤原氏にゆかりがあると考えるべきということになります。

ただ「ゆかりがある」といっても、本当に自分が藤原鎌足の子孫であるかとは別問題です。地名から名乗った名字がたまたま藤原氏でも使われていた場合もあり得ますし、当時住んでいた土地で有力だった藤原氏の名字を名乗ったのかもしれませんし、ただ理由もなくこっそりと藤原氏を称しただけかもしれない!?…からです。

自分のルーツを調べる方法

これまでご紹介した名字の中に、自分の名字が含まれていたら、あなたも藤原氏にゆかりがある可能性が高いといえますが、名字だけでわかることには限界があることも事実です。そのため、家紋を調べたり、古い戸籍謄本を取得して自分の先祖が江戸時代に住んでいた場所をも突き止めなければいけません。ご自身で取り組むと、数年かかってしまうような道のりになりますが、興味のある方はぜひチャレンジしてみて下さい。

藤原氏が大族といわれるワケ

実は一言に藤原氏といっても、様々な支流があることがご理解いただけたのではないでしょうか。嫡流で上品な貴族の藤原氏もいれば、勇敢な武士の藤原氏、さらには武士から農民に帰農した藤原氏や、商人や職人になった藤原氏、神社の神主(宮司)になった藤原氏など、長い歴史の中で様々な人々が紆余曲折を経て生き残ってきたに違いありません。その多種多様な人々の延長線上の存在が私達・現代人ということになるのです。

藤原氏が大族といわれるのも、秀郷流と利仁流に代表される武家が全国的に広がったからこそであり、武家藤原氏はいわば「庶民派の藤原氏」ともいえます。

また、芥川小説の題材にもなった藤原利仁の「芋粥」の説話や、藤原秀郷の大ムカデ退治の伝説など、現代に伝わる伝承もあり、日本という国の中に藤原氏が深く関わっていたのかも知ることができたのではないかと思います。さらには藤原氏だけではなく、世界でも一目置かれる長い歴史をもつ日本の魅力を再確認できたのではないでしょうか。

世界有数の歴史を持つ日本で先祖探しをすることは、日本人であることを再確認できる大変に意義深いことだといえます。本格的にご自身のルーツ探しをして、藤原氏と自分のルーツを照らし合わせてみると、歴史上の人物と意外なゆかりが見つかるかもしれませんよ。