自分のルーツ探しから、関心は日本の戸籍の謎へ

このコラムでは、自分のルーツを探るために必要な、過去の戸籍を辿る方法などをご紹介しています。 ご先祖さまを順番に辿っていって必ず突き当たる戸籍は、日本という国が全国を隈なく同じ基準で調査してでき上がった最初の戸籍、明治5年式戸籍(壬申戸籍)になります。

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国によって封印された「壬申戸籍」の秘密

明治政府によって前年に制定された戸籍法に基づいて編製された、近代的な戸籍の元祖と言っていいものです。 ここまで来ると自分のルーツ探しとは別に、それよりもっと古い日本の戸籍や、さらには日本最古の戸籍とはどういったものなんだろうか、ということに興味が湧いてくるはずです。

江戸時代には戸籍があったのだろうか。どんな戸籍で、いったいどんなことが書かれていたのだろうか。日本最古の戸籍はどんな目的で作られたのだろうか。謎と興味は深まるばかりです。そこで今回は日本最古の戸籍についてご紹介しましょう。

幸運がもたらした現存最古の戸籍とは

奈良の東大寺境内にある国宝・正倉院。高床式で校倉造りの重厚な佇まいは、修学旅行などでご覧になった方も多いことと思います。8世紀中頃までの天平文化の頃の美術品や工芸品が収蔵されていることで知られています。 そこに収められている「大宝二年御野国加毛郡半布里戸籍」(たいほうにねんみのこくかもぐんはにゅうりこせき)が、現存する日本最古の戸籍の一つといわれています。

今から1300年以上も前の大宝2年(702年)に作られた戸籍です。御野国加毛郡半布里とは現在の岐阜県加茂郡富加町のことで、50戸を1里として1巻にまとめられる内、冒頭の集計と4戸分が失われているほか、ほぼ全体が残っていました。

不要な紙は破棄されず、再利用していた

戸籍は6年に一度、1里1巻を3部作成して1部は国府に保管し、2部を都に送っていましたが、都では1万巻以上の戸籍が全国から集まっていたそうですから、アナログな時代としては膨大な量です。保管期間は30年とされ、期間が満了すると廃棄されるのですが、紙が貴重だった当時、そのまま捨てず裏を再利用していました。今にしてみれば個人情報ダダ漏れで大問題になるところでしょう。それでもメールアドレスや携帯電話がない時代のこと。そのへんは実に大らかだったのかもしれません。

「半布里戸籍」はたいへん運が強く、東大寺の写経所に払い下げられ裏紙として活用されました。裏には天平20年(748年)の千部法華経書写関係の帳簿が記録されたお陰で、長年に渡って保存されたということです。いくつかの偶然が重なって発見された、とても幸運な戸籍だったというわけです。

それでは、「半布里戸籍」にはどんなことが書かれていたのでしょうか。1里50戸を「五保」という5戸ごとのまとまりで記載されています。これは逃亡や納税などに関する連帯責任を意味した単位とされています。また「戸」には等級があり、課役の対象となる正丁(21歳から60歳までの男子のこと)の数による3つの区分と、資産によって9段階からなる「九等戸」という分類がされているといったことが特徴的でした。

最古の戸籍が2012年に出土!?

現存する最古の戸籍に対し、歴史に記録されたもっと古い戸籍では、日本書紀に記された天智9年(670年)の「庚午年籍」、持統4年(690年)に作成された全国的な戸籍の「庚寅年籍」があります。これらは木簡に記されたとされていますが、これまでに発見されたことはないそうです。 ところが2012年、福岡県太宰府市にある国分松本遺跡から「庚午年籍」「庚寅年籍」とほぼ時代が一致する戸籍のような木簡が発見されました。木簡には16人分以上の名前が載っているほか身分や性別、続き柄が記されています。正倉院には「半布里戸籍」と共に同時期の「筑前国嶋郡川辺里戸籍」も収蔵されていますが、この木簡にも「川部里」という名があり筆跡も同一人物によるとのことです。1年間の人の異動を記録した帳簿のようで、正式な戸籍か、メモ書きかといったところで意見が分かれるそうですが、現状では最古の戸籍を記したものと言えるのではないでしょうか。

ご先祖さまは正倉院にいる?

飛鳥時代に人民の把握や統治を目的に作成されていた戸籍。わたしたちの戸籍を辿っていって正倉院に所蔵されている戸籍に辿り着く、ということは現実的には難しいと思いますが、自分のルーツへの興味をきっかけに日本の歴史にふれることで、ルーツ探しがとてもロマンに満ちていることを感じられます。直系の先祖を30代遡れば10億人を超えるという計算になります。そう考えれば、自分のご先祖さまの戸籍は、実は正倉院に残されていると考えられなくもない。
そんな気もしてくるものです。