今の日本で当然のように受け入れられている天皇家。しかしその存在について深く考えたことは少ないはずです。それほど日本社会に溶け込んでいる存在のため、改めて説明するのは難しいものだと思います。
日本は天皇の子孫が統治してきた国?
学校で習った奈良時代の橘諸兄、平安時代の平清盛、鎌倉幕府の源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏などはいずれも確かな天皇の子孫でした。藤原氏は天皇家の子孫ではないものの、1000年以上にわたって天皇家と親戚であり続けました。そして後世の徳川将軍家をはじめ、全国の大名家も、皆先祖がはっきりとわからない家々も、ほとんどが天皇家につながる源氏や平氏の末裔を称しています。
天皇家は日本の「家」の「本家」?
ある意味で天皇家は、日本の「家」の「本家」のような存在なのです。それではこの天皇家は、一体いつから天皇家なのでしょうか。天皇家のルーツはどこまで遡れるものなのか、気になっている方も多いのではないでしょうか。
本記事では、天皇家のルーツに関する各説を簡単に紹介し、なぜこれほど長く続いてきたのかについて解説します。なおここで紹介する説は、あくまでも諸説あるうちの一つにすぎないことをはじめにお断りしておきます。
目次
天皇家は世界最古、最長の王朝
現在では「日本国民の象徴」(憲法)とされている天皇ですが、元々、天皇とは日本の王様でした。さらに世界との比較でいうと、天皇家は現在では世界最古の王家であり、王朝としての歴史も世界最長で、さらに古代天皇のお墓は、世界最大級です。
日本の天皇家と世界を比較すると…
- 世界最古の王家
- 世界最長の王朝
- 世界最大級のお墓の主
このように3つの世界一があり、天皇家は世界で類を見ない長い歴史を持っていることになります。そして今現在でもその歴史は続いています。
天皇家は初代の神武天皇が紀元前660年に即位されてから令和の今上陛下で126代目。古事記・日本書紀(記紀)などによれば2600年以上の歴史があるとされています。紀元前660年という年代自体は学問的には肯定できるものではありませんが、実在が確かな天皇から数えても世界最古、最長の王朝といえます。6世紀前半に実在し、血筋としても連続性があることは確かとされる第26代継体天皇から数えても、既に100代、1500年以上の歴史があるためです。
天皇家のルーツはどこまで遡れるか
天皇家のルーツに関しては、いくつかの説・論点があり、今でも議論が続いています。それぞれの説を簡単に紹介します。
- 初代神武天皇(紀元前711-585年)から実在するとする説
- 第2-9代の欠史八代(紀元前632-98年)の実在性の論点
- 第10代崇神天皇(紀元前148-30年)から実在するとする説
- 第15代応神天皇(西暦201-310年)から実在するとする説
- 第21代雄略天皇(西暦418-479年)から実在するとする説
- 第26代継体天皇(西暦450-531年?)から実在するとする説
注)上記の年数は古事記・日本書紀による年数です(諸説あります)
神武天皇は実在したのか?
果たして初代天皇とされる神武天皇は実在したのでしょうか。古事記・日本書紀(記紀)によれば神武天皇は日向国(今の宮崎県)から出発。宇佐などを経て吉備に3年滞在し、大阪、和歌山熊野とまわって上陸。ナガスネヒコとの華々しい戦闘の末大和に入って紀元前660年元旦に今の橿原市の橿原宮で即位されました。
紀元前585年、127歳で亡くなったなどは現実的ではないため、“記紀通りの神武天皇”という意味ではその実在は否定されるでしょう。仮に実在したとしても、もはや現天皇家の男系の先祖か、途中で女系となっているのか、全く別系統となっているのかもわかりません。このように、神武天皇が実在するのかどうかは、本当のところは誰にも分かっていません。
欠史八代の論点
初代神武天皇と10代目崇神天皇の間の、2~9代目の天皇は「欠史八代(けっしはちだい)」と呼ばれ、妻や宮の名前、没年齢など以外の事跡の記録がなく、一般的には実在していなかったとするのが通説です。その一方で、少数ながら実在していたと考える説も根強く存在します。
第10代崇神天皇は実在するか?
崇神天皇は実在した可能性があるとされている天皇です。この天皇の頃に大和王権は勢力範囲も拡大し、国家としての形が整い始めたと考えられています。実在した場合、だいたい3世紀後半頃の人物ではないか、とされています(年代的には卑弥呼かその次の世代くらいか)。
この天皇の時代を記すものは記紀などわずかなものにすぎませんが、注目すべきは奈良県桜井市にある纒向遺跡(まきむくいせき)の存在です。纒向遺跡は卑弥呼がいた邪馬台国畿内説の候補地として有名である一方で、当時の大和王権の宮都とする説があるためです。考古学的にみて大和王権の首都がこの地にあった可能性が高いといわれていることからしても、崇神天皇の実在性は高いといえるかもしれません。
第15代応神天皇は新王朝の初代か?
応神天皇は、誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、中世以降は清和源氏や桓武平氏などの武家から軍神八幡神としても信奉されました。今でも八幡神を祭神とする八幡神社が多く存在していることから身近に感じる天皇ともいえそうです。この応神天皇が新王朝の初代とする説が強くあり、実在はほぼ確実ですが、今の天皇家とのつながりがあるのかは定かではありません。
第21代雄略天皇は実在するか?
現天皇家との血のつながりは不明ではありながら、雄略天皇が実在する最古の天皇とする説も有力です。また雄略天皇は中国の宋書に現れる倭の五王の最後にあたる、倭王武と考えられています。中国での記録が残る一方、国内史料でも埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣銘「獲加多支鹵」(ワカタケル)、熊本県の江田船山古墳出土鉄刀銘「獲□□□鹵大王」と、日本書紀に見られる雄略天皇の名前「大泊瀬幼武」(オオハツセワカタケル)が一致しています。このことから、雄略天皇は実在する可能性はとても高い天皇だといえます。
第26代継体天皇は実在が確かとされている
継体天皇は実在が確かであり、現在の皇室までつながる天皇家の系統の始まりと考えられています。
継体天皇と雄略天皇とは血縁関係はあるのか?
第26代継体天皇と第21代雄略天皇の間に系図上のつながりはあるのでしょうか。この点、古事記や日本書紀その他の記録類以外に血縁関係の有無を証明するものはありません。したがって、継体天皇の当時の大王家との血縁の遠さや、大和に入るまでの期間の異常な長さ(即位から20年経って大和に入った)から、別系統の豪族が大和に入って王権を簒奪した、といった学説は強く存在しています。
天皇家のルーツ:現時点での結論
- 現在の皇室へのつながりが確実視されているのは第26代継体天皇(450-531年?)から
- 継体天皇以前も大王がいたことは確実だが、現在の皇室と血の繋がりがあるか“確証”がない
- 天皇家は元々「大王」と呼ばれ、「天皇」という称号が正式に使われるようになったのは600年代
- 継体天皇より前の歴史は700年代に編纂された「古事記」「日本書紀」などの記紀が元になっている
- 今後の考古学、文献史学の進展によっては真実が解明されるときがくるかも?
結局のところ、継体天皇以前のルーツ(男系男子という意味での先祖)を正確に辿ることはほぼ不可能といってよいのが現状です。記録がない以上想像の幅は広がりますが、それでも埼玉県稲荷山古墳鉄剣銘の発見など驚異的な発見が現実にあるわけですから、今後の考古学、文献史学の着実な進展を期待したいところです。
天皇家のルーツについて様々な説があることがご理解いただけたと思いますが、いずれにしても日本の天皇家は少なくとも1500年以上の歴史があり、神話も含めて日本の人々に信じられてきた存在である事実は変わりません。次に、天皇家がなぜそれほど長く続いてきたのか考えてみましょう。
天皇家はなぜ続いてきたのか
(天皇家はなぜ続いてきたのか)、、、天皇家を超える実力者は多くあらわれている、、、なろうと欲すればいつでも天皇になれた。なのにそれをしなかった(中略)。どうして実力者は天皇にならなかったのか(中略)。歴史家はこれを十分に説明してくれない。学問的に証明できないのだという。-「神格天皇の孤独」松本清張-
少なくとも継体天皇以降の1500年はほぼ確実に今の天皇家が続いてきたといえますが、なぜ続いてきたのでしょうか。上の言葉にもある通り、説明するのはなかなか難しい問題ですが、理由は一つではないようです。世界中の王家が滅んできたのは、ひとつには陸続きなどの関係で外国勢力が侵入しやすく、外国勢力によって滅ぼされたことが背景にあります。
この点日本は、天智天皇が唐・新羅の連合軍と戦った白村江の戦い(663年)の敗北がほぼ唯一、対外的な危機でしたが、“外国勢力”によって天皇家一族が滅ぼされたり、天皇が廃されたりということはありませんでした。
では“国内”で勃興する諸勢力(権力者)に滅ぼされなかったのはなぜでしょうか。考えるほどに難しい問題です。ここではいくつかの考察をしてみたいと思います。
中国と日本の違い
日本は古代以来中国から様々な影響を受けてきましたが、その中国ではよく王朝の交代が起こっています。「国を治める王が徳を失って暴君と化したのなら、その王を易(か)えて新しい王家が国を治める」という王朝交代の理論は古くから成立しており、これを易姓革命といいます。王家には姓があり、それを易(か)えるため、こう呼ばれます。
一方の日本はというと、こうした発想に依拠した王朝交替はありませんでした。源頼朝は天皇家に代わって日本を支配しようとしたわけではなく、その前の藤原氏も平清盛も天皇に代わって王になろうとは考えなかったのです。
日本の統治と天皇家の関係
日本人は古くから「この国を治めている天皇はこの国を創った神々の末裔である。天皇の統治の正当性は神の正当な末裔であることにより担保され、我々の先祖もそうした天皇家から分かれた一族で、代々奉仕してきた、あるいは古くから随従してきた一族である、我々の先祖はこの国を統治する天皇家の一員なのだ」そんな意識が垣間見えます。
後世に再編集された日本神話や古代氏族の天皇家につながる系図は、朝廷に仕えた人々の、神の国日本における自らの立ち位置の固定作業という側面があり、結果的には仕える人々はみな天皇家の与党として構成されたといえます。このことは江戸幕府が編纂した寛永諸家系図伝や寛政重修諸家譜の構成にもいえ、当時の武士の頂点にいた将軍にいかに一族が忠勤を励んだかを強調する構成になっており、反逆したものは実在が確かでも系譜から抹消されたり、反逆の事実をぼかされたりしました。
神の国で神の正当な末裔の天皇に逆らって新王朝を樹立することは、神や天皇につながる自分の家の歴史も否定し、日本中に祀られている神や、現実にも大変な勢力をもつ様々な宗教勢力を敵に回すこととなり、統治のあり方を模索すらできない、そうした考えが権力者の中にあったのかもしれません。
時代ごとの武家政権と天皇
権力者として鋭い関係にあったのはなんといっても天皇と幕府の関係といえます。権力者・時代ごとに天皇家との関わり方をご紹介していきます。
平清盛(1180年頃)
初の武家政権とも考えられる平清盛は、都に政権の基盤を置き、前代の藤原氏の摂関政治のように天皇の外戚として、権威は天皇、権力は平氏、と割り切っていたようです。しかし都に基盤を置いた公家政権のような側面も強く、社会のニーズをよく捉えた頼朝に滅ぼされてしまいました。
源頼朝(1192年頃)
源頼朝の挙兵は直接的には身の危険を避けるためであったにしても、ついてきた東国武士団に富士川の戦い直後に西上を止められて以降、東国における「自分たちの権益を守る組織の樹立」に専念しており、ある意味では独立でしたが、それは朝廷の秩序内での立ち位置(征夷大将軍)を明確に求めながらなされたもので、鋭い緊張関係にありながらも新しい王朝の樹立など考えもしなかったという点では、体制内にとどまっていたといえます。
鎌倉幕府創設後も政権の法的正当性は何よりも朝廷から与えられた「征夷大将軍」という官職でした。「征夷(せいい)」とは、そもそも王権に服属しない東北地方の蝦夷征討という意味であり、軍事力をもって朝廷に奉仕する武人に与えられる官職でした。征夷大将軍が令外官であったとはいえ、天皇から官職を拝命している時点で諸外国のような王朝の樹立などではありません。こうした、もっとも軍事力を持つ者の、天皇家や朝廷に対する一歩譲った態度はその後の武家政権に引き継がれていきます。
執権北条氏(1203-1333年頃)
北条氏も鎌倉将軍家滅亡後、自らが将軍とはならず、摂関将軍、皇族将軍を迎え、決して自らが天皇になったり、天皇とは異なる王朝を打ち立てようとはしませんでした。
足利尊氏(1338年頃)
足利尊氏も後醍醐天皇(大覚寺統)との軋轢があったにせよ、それは持明院統の天皇を北朝として立てることで解決し、自らが天皇になることなどは考えませんでした。
尊氏の頃も記録を見ると、自らの権力の正当性について人々が腐心している様子が見て取れます。日本でかつて存在した権力者はいずれも天皇という最高権威者から官位をもらうことで、自らの権力の正当性にお墨付きを与えてもらってきましたが、このことが如実に表れているのは足利将軍家です。
足利尊氏は鎌倉幕府崩壊後の建武の新政をめぐって後醍醐天皇との対立が深刻化。持明院統の光厳上皇を治天の君に擁立してその弟の光明天皇を即位させると、後醍醐天皇を幽閉して『建武式目』を制定し「征夷大将軍」となりました。足利尊氏も天皇家を滅ぼさず、皇族内部から新しい天皇を擁立してその権威を自らの政権基盤の基礎としたのです。
織田信長・豊臣秀吉・徳川幕府(1573-1867年頃)
こうした権力者(実力者)側のある種の抑制された天皇への関わり方はのちの時代の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、徳川幕府のいずれにも見られます。「自らが神になろうとした」などと言われることもある信長も、実際は旧来の秩序の全てを壊そうなどとはしておらず、秀吉は天皇の落胤と称したり、天皇から豊臣姓を賜っています。徳川家康も禁中並公家諸法度を制定していますが、天皇家を滅ぼす目的などは全くないものです。
皇室に対する崇敬の念ももちろんあったかもしれませんが、天皇の権威を利用して権力の維持を図る構図が見てとれます。つまり日本の長い歴史の中で、時の権力者たちは天皇を滅ぼさず、その権威を借りて国を統治してきたということになります。
天皇家は日本人の精神的支柱?
後世になるほど、天皇家は権力を離れ、続いていることそれ自体によってさらに権威を増して、ときの権力者の権威を正当付ける権威者として存続するようになります。
天皇家は、何か特定の理由だけで1500年続いた、というわけではなく、その時代その時代の様々な要因が複合的に絡み合った結果、無事に続いてきたといえます。
戦後、マッカーサーが天皇を処罰対象から外したのは天皇の武力を恐れたというよりも、長い年月を経て培われた天皇の持つ日本人の精神的支柱としての存在力の大きさを考慮したためと考えられています。
まとめ:日本人と天皇の関係
こうした天皇家と日本人の関係ですが、血縁関係はどれくらいの人があるものでしょうか。昔からある源氏や平氏といった一般的な系図(男系男子)という意味では、後世に誤った系図も多く作られ、また特に応仁の乱(1474年)以降は血統という意味では出自がわからない大名が多く台頭したこともあり、正確なことはわかりません。
しかし男系女系、血のつながりのある全ての人を先祖、として考えれば、近現代に日本国籍を取得した人を除けば、まずほとんどの日本人が天皇家との血統上の関係を持っているといっても過言ではありません。
日本人の大半は天皇家とつながってしまう!?
「ウチみたいな普通の家が天皇家とつながるはずがない!」
こう思う方がほとんどだと思いますが、血のつながりのある一切の先祖について考えた場合、私たちはむしろ天皇家とつながらない人間を探す方が難しいともいえます。例えば今の天皇陛下から46代前は平安京を作った桓武天皇ですが、ひとりの人間から46代遡ると、この世代の先祖は理論上7兆人存在することになります。
平安時代はじめの日本人口は多くとも400-600万人と推計されていますので、先祖同士の結婚によって、重複する先祖が多数いたとみて、この数十兆の人数を100万分の1くらいに減らして考えたとしても、まだ当時の先祖の数が7000万人となってしまいますので、理屈の上ではやはりその時代にいたほとんど全ての人物の血を引いていることになります。
日本の家の本家が天皇家
私たちは天皇家を含むあらゆる人につながっている、くらいにイメージして頂くとわかりやすいと思います。日本人にとって遠いようで近い存在であり、正に「日本の家の本家」、それが天皇家だといえます。
史料の残存状況の関係で、先祖を辿ってみても自分と天皇家との関係を“証明”することはほぼ不可能ですが、本格的に調べてみることで、何かしらの「ゆかり」は見つけられる可能性があります。
天皇家とゆかりがある、日本で代表的な「4つの氏(四姓)」を「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」と呼びます。自分の先祖がこの流れに行き着くことは先祖調査の現場では決して珍しくないことなのです。
興味本位で自分の先祖を調べてみたことがキッカケで、結果的に日本という国の長い歴史や素晴らしさに気付くことができるのが家系図作りの魅力の一つです。ご興味のある方は、是非ご先祖探しにチャレンジしてみて下さい。
参考文献
『シリーズ「遺跡を学ぶ」邪馬台国の候補地 纒向遺跡』石野博信
『古代史講義』 佐藤信 ちくま新書
「神話」から読み直す古代天皇史 若井敏明 ちくま新書
『崇神天皇』肥後和男
『倭国のなりたち』日本古代の歴史1 木下正史
『日本史小百科 天皇』児玉幸多
『日本の古代1 倭人の登場』森浩一編
『日本の歴史02 王権誕生』寺沢薫
『室町の王権』今谷明
『源頼朝』永原慶二