江戸時代の日本には幕府が定めた「寺請制度(てらうけせいど)」というルールがありました。檀家制度(だんかせいど)にも似ていますが、少しだけニュアンスが異なります。この記事では寺請制度がどうして作られたのか、その歴史的背景や意義についてご紹介します。

「寺請制度」とは?その歴史的背景

寺請制度とは何?

寺請制度とは、江戸時代に徳川幕府によって始められた制度です。具体的に言うと、すべての人々がいずれかの寺院の「檀家」となることを強制させられ、寺院から「寺請証文」という身分証を受け取らなければならない制度です。

檀家になると、自分の所属する寺院に「お布施」を収め、葬式や法要の一切を執り行ってもらいます。一方、お布施を上納されたお寺では、お布施によって経済的基盤が整う一方、檀家となった住民の動向や戸籍上の管理を請け負う義務が生じます

戸籍上の管理を記録した書類が、「宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)」或いは「檀家台帳」と呼ばれる書き付けです。檀家台帳は現在で言うと、区市町村に管理されている住民基本台帳や戸籍原本と同じようなものであり、江戸時代の寺院は間接的に幕府の出先機関の役割を任されていたということになります。

したがって、村人が何らかの理由により、他村に転居する際には、現在と同じように住民票の移動を行う必要が生じました。これを行ったのが寺請している寺院です。お寺から転居に関わる書き付け(これを「寺請状」という)を発行してもらい、引っ越し先の寺院にその書き付けを手渡すと同時に、檀家として受け入れてくれるようお願いしなければなりません。

江戸時代には、引っ越しや旅行をする時など、その都度身元を証明する必要がありました。檀家に対して、寺院が身分を証明する寺請状や「旅手形」の発行がその一例です。戸籍の管理全般や、パスポートとしての旅手形の発券などを寺院が請け負っていた制度を「寺請制度」と呼んでいました。

寺請制度と「寺壇制度」の違いとは?

寺請制度は一言で説明すると、いずれかのお寺の「檀家」にならなければいけない制度です。すべての人々が寺院の檀家となり、生まれた場所や生年月日、父母は誰かなどすべての個人情報を寺院に届け出ました。従って、当時の寺院は、現在の区市町村の「住民課」にある「戸籍係」のような出先機関としての役割を担っていたわけです。

ところで、寺請制度とは別に「寺壇制度」という仕組みがあることはご存知でしょうか?「寺請」、「寺壇」いずれも言葉は似ていますが、別の制度を意味しています。寺壇制度と寺請制度の違いを簡単に説明すると、以下の通りです。

寺壇制度とは

江戸時代以前から、公家や身分の高い武士の一部が行っていた制度。もともと自前で寺院を建立できるほどの経済力を持っていた一部の高級官僚や大名が、ある特定の寺院と、一族に関わる葬祭一切の専属契約のようなものを結んでいました。このお寺と家との関係が、寺院を「菩提寺」、家を「檀家」と呼ばせていたのです。

この制度にまつわる習慣は、西暦1600年代初めの江戸幕府の初期にかけて、広く一般の民衆にも広まってきます。もともとは財力のある武家や商家が倣ったものであると考えられますが、やがて一般民衆にも菩提寺と檀家の関係が定着していったようです。

純粋な意味で見れば、寺壇制度とは、檀家になってお寺を人的にも経済的にも支えていく制度と言えるでしょう。

寺請制度とは

寺請制度とは、江戸幕府が開始した制度です。その家や一族の人々が、檀家として特定の寺院を菩提寺として定めることで、身分を証明するとともに、江戸幕府が禁止していた宗教(主にキリスト教)に帰依していないことを証明しました。

そのため、村人がある理由で転居したり、お伊勢参りなどの旅行に出かけたりするには、「寺請状」や「旅手形」を発行するのも寺院の公的な役割とされていたわけです。寺請制度は寺壇制度を利用して、住民の動向や戸籍管理を進める江戸時代独自の制度です。

いずれにしろ、寺壇制度や寺請制度を定着させることで、江戸幕府は禁止していた宗教を除外し、仏教に帰依させるために菩提寺と檀家関係を結ばせていました。その意味で寺請制度と寺壇制度とは、表裏一体の関係にあったということが分かります。

寺請制度が作られた歴史的背景とは

長い戦乱の世が終わりを告げ、ようやく社会が安定した西暦1600年代初頭。寺請制度が作られたのはそんな江戸時代初期のことです。ところが、まだ江戸幕府という政権が発足して間もない寛永14年(1637年12月11日)、日本の歴史史上最大規模の一揆と呼ばれている「島原の乱」が九州島原・天草地方で発生しました。

16歳の少年「天草四郎」を総大将とする民衆に、多くのキリシタン大名を加えた総勢約3万7000人の反乱軍は、松平信綱を総大将とする幕府軍12万5800人と、島原「原城」において壮絶な死闘を繰り広げます。およそ4ヶ月に及ぶ戦いの末、一揆軍は全滅させられ、幕府方も約8,000人以上の死傷者を出しました。

もともとは、島原地方を治めていた「松倉勝家」の、島原藩の百姓に対する過酷な重税の取り立てや、カトリック教徒キリシタンに対する迫害が乱の発端でした。年貢を納められない百姓やキリシタンへの弾圧、改宗を拒んだ者への拷問や処刑が相次ぎ、ついに民衆が蜂起したのです。

島原の乱は、正確に分析すると、「幕府軍VSキリシタン」と思われがちですが、実相は不明な点が多いのも事実です。但し、過酷な重税取り立てに耐えきれなくなった民衆が、為政者に対して起こした反乱であることは間違いありません。そして、反乱軍の心の支えになっていたのはカトリック・キリスト教であるのは歴史的にも証明されています。

江戸幕府にとって、キリスト教の布教が、乱発生以前から「目の上のこぶ」になっていたのは紛れもない事実であり、4ヶ月にも及ぶ壮絶な島原の乱が、相当なダメージや恐怖を時の政府に与えたようです。

 

寺請制度の目的と制度が作られた理由

天草四郎

寺請制度の目的

江戸幕府が、寺請制度を創設した主な目的は次の通りです。

キリスト教の禁止

寛永14年に発生した「島原・天草の乱」の衝撃は、江戸幕府にとって想像を絶する事態であったようです。松倉勝家らの圧政が原因とは言え、死ぬことを厭わない「殉教」の教えに結びついたキリシタンの恐ろしさは、幕府を震え上がらせました。

過酷な圧政を敷いた松倉は、江戸時代唯一の斬首刑に処せられ、関係した大名の多くが改易の処分を受けましたが、その一方でキリシタンへの弾圧は熾烈を極めます。島原の乱以後、江戸幕府はキリスト教の布教を完全に禁止し、宣教師を送っていたポルトガルと国交を断絶させます。

さらに、一般民衆に広まっていたキリスト教を一掃するため、「宗門改め(しゅうもんあらため)」という宗教政策を行います。イエス・キリストや聖母マリアの肖像画を踏ませて、キリスト教徒では無いことを確かめる「踏み絵」が始まったのもこの時からです。

禁教令に伴うキリスト教徒の摘発と、その一掃が熾烈に進められる一方で、寺請制度が宗教管理と住民管理を担って開始されたわけです。

キリスト教以外の禁教の徹底

寺請制度は、キリスト教の布教を禁止する「禁教令」と同時に推し進められましたが、キリスト教以外にも布教が禁止された宗教があります。それが日蓮宗の「不受不布施派」と呼ばれている一派です。

不受不布施派では、日蓮宗の信徒以外からは、供物やお布施の一切を拒否し、逆に一切の施しも与えないという考えが、教義の根底にありました。従って相手が大名であろうが、たとえ将軍であろうが、日蓮宗の宗徒でなければ、経済的な支援を一切拒否します。

さらに、寄進やお布施を受け取らない代わりに、時の権力者の介入や統制を一切否定し、拒みます。このような排他的で独善的な教義を、江戸幕府は危険な「邪教」であると認定し、明治時代を迎えるまで、日蓮宗「不受不布施派」の布教活動は許されませんでした。

寺請制度が作られた理由

戸籍の作成と住民管理

キリシタンの摘発と締め出しを目的に行われた「宗門改め」。江戸幕府はこの制度を徹底させ、やがて「宗門人別改帳」を作成します。この人別改帳に記載されなかった者は「無宿人(むしゅくにん)」とか「非人(ひにん)」と呼ばれ、様々な不利益を被ります。

人々は不利益を被りたくないので、宗門改めを受け入れ、人別改帳に進んで記載されるようになっていきます。人別帳には生年月日や出生地、身分や続柄、収穫高など事細かに記載されており、現在の戸籍や住民台帳以上の個人情報が満載されていました。

この管理・運用を、幕府の出先機関としての寺院に実施させることで、江戸時代の住民管理はより徹底されていったようです。

寺院の経済的基盤の確立

江戸幕府、大名・武家にとって、それまで寺院の経費や経済的な支援は、かなりの負担でした。寺の建て替えや経費の援助は、武家の経済状況を逼迫させます。

この状況を改善させたのが「寺請制度」と「寺壇制度」です。民衆は必ずいずれかの菩提寺の檀家となり、寺院を経済的に支えなければなりません。葬儀や法要は菩提寺で必ず執り行い、お布施を収めなければなりません。その他、春秋のお彼岸や年忌法要、命日供養や定期的な参詣(墓参り)などが義務化・慣例化されていきます。

それまで寺院の経済的な支援は、有力な武家や貴族のみが行っていましたが、寺請制度の定着によって、一般民衆である檀家がその負担を肩代わりすることになったのです。武家や貴族の負担は激減し、民衆が寺院の経費を負担することでお寺の経済基盤も安定します。

まさに寺請制度は江戸幕府にとっては、願ったり叶ったりの施策でした。

 

 先祖探しの手がかりは寺請制度?

江戸時代初めに施行された「寺請制度」は、1871年、明治政府によって廃止されます。現在では、その名残ともいうべき「檀家制度」のみが残されています。この現在は廃止されて、檀家という形しか残っていない寺請制度が、先祖探しの手がかりとして実に有効です。

菩提寺と檀家の関係

寺請制度は廃止されても、檀家と菩提寺という関係は現在も残されています。菩提寺である寺院では、もともと「宗門人別改帳」が作成されていたわけですから、その地方の家の繋がりや系図を最もよく理解しています。

明治に入り、宗門改が廃止されてからも尚、家毎に「過去帳」という一種の葬儀記録が作成され、家のつながりは厳然と記録されてきました。但し、残念ながら現在ではほとんどの宗派で過去帳の閲覧は禁止されています。

しかし、檀家として菩提寺の僧侶に相談し、先祖探しのヒントを得ることはできます。住職から話は聞けなくても、お墓の位置や墓石に刻まれた情報を分析することで手がかりが得られることもあります。

まとめ

寺請制度の歴史的背景や寺壇制度との関係、そして寺請制度の存在が先祖探しの手がかりになるというお話をご紹介してきました。

江戸幕府によって定められた寺請制度は明治に入って廃止されましたが、寺壇制度や檀家制度の名残は、今でも私たちの身近な日常生活に残っているのはお気付きのことでしょう。昔からの風習は面倒なことと思われがちですが、全て否定するのでは無く、寺を市民と関わりを見直すきっかけにしてみてください。