戦前に、今の中国の北東部に位置する場所に13年間だけ存在した「満州国」という国をご存知でしょうか。この満州国は日本が作った傀儡国家とされています。

私達がお客様から依頼をうけて、先祖調査を実施する前には必ず家伝を聞取りしますが、今でも実際にご先祖が満州に渡ったという話が出てくることも少なくありません。さらに家系図を作るためには必ず戸籍を取得することになりますが、その際に戸籍の記載からよく出てくるのがこの「満州国」です。自分の先祖の戸籍から満州国という表記が見つかると、

  • 満州国とはどんな国だったのだろうか
  • 自分の先祖は満州でどんな暮らしをしていたのだろうか

こんなことが気になってくるものです。そんな方に向けて、この記事では満州国の歴史、さらに自分の先祖が満州に関わっていた場合の記録を見つける方法を解説します。

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満州国建国の歴史

満州国をめぐる年表

年月 出来事
1930年 昭和恐慌発生・農村不況が深刻化
1931年9月 満州事変勃発・日本人の移民政策が活発になる
1932年3月 満州国建国
1933年3月 日本が国際連盟を脱退
1937年7月 日中戦争勃発により成人移民の確保が困難になる
1938年1月 満蒙開拓青少年義勇軍が制度化される
1941年12月 太平洋戦争勃発
1945年7月 関東軍が満蒙開拓団の男子を根こそぎ動員
1945年8月 ソ連参戦・終戦により満州国滅亡
1946年1月 満州在留日本人の送還事業がはじまる
1950年 シベリア抑留者の日本への帰国が本格化

満州とは

満州国の位置

満州とは、中国の東北地区(朝鮮半島の北側)の地名で、その土地はもともと中国の清王朝の土地でしたが、元々様々な民族が争奪し争ってきた土地で、明治時代以降は主にロシア帝国と清が支配していた場所でした。

日露戦争が満州統治のきっかけ

明治時代に起こった日露戦争(1904年)は、この満州と朝鮮半島の権益争いが原因でした。戦争でなんとか勝利を収めた日本は、ロシアとポーツマス条約を締結し、ロシアが満州に建設した鉄道路線の一部にあたる南満州鉄道の経営権、付属地の炭鉱の租借権、関東州の租借権を獲得はしたものの、戦争賠償金までは獲得することができませんでした。

最重要だった南満州鉄道の経営

もともと日露戦争に膨大な戦費を費やしていた日本にとっては、軍事費を回収できなかったことは痛手でした。日本はこの戦費をどうにか回収しなければいけない状況だったこともあり、日露戦争以降、南満州鉄道関連の経営権益は日本にとって朝鮮半島やアジア進出への足がかりとして重大な生命線と認識されるようになりました。

満州を統治した「関東軍」

南満州鉄道とその付属地の警備を目的とする守備隊は「関東軍」として日本陸軍の一つに数えられ、満州で大きな影響力をふるいました。ちなみに「関東」というのはいわば関東州(満州全体)のことを表す呼称で、日本の関東地方とは無関係です。この関東軍は次第に本丸である日本政府の意向を無視するような態度・行動をとるようにもなります。

満州事変(柳条湖事件)

その一つが関東軍が起こしたとされる柳条湖事件にはじまる満州事変(1931年)です。この満州事変により、関東軍は満州の主要都市を侵略し、占領しました。このときに占領した満州をどう支配するか、そこで出てくるのが「満州国」という傀儡国家を樹立するという発想でした。傀儡とはいわば“あやつり人形”のこと、つまり日本の意向に従う親日国家を作って満州での権益を独占しようとしたのです。

しかしこの満州事変の侵略が、国際社会から批判を受け、日本が国際的に孤立するきっかけにもなりました。この満州事変を中国が日本軍の「侵略」だとして国際連盟に提訴した事により、リットン調査団が現地に派遣され調査が実施されました。この報告書をうけて国際連盟は、“満州国の存続を認めない勧告案”を採択したのです。これを不服とする日本は、1933年3月に国際連盟を脱退してしまいます。

満州国の建国

満州国の建国

1932年3月1日、関東軍主導のもとに満州国は中華民国からの独立を宣言し、建国が宣言されました。首都は新京(現在の中国吉林省長春市)に定められました。日本軍が統治する前は1500万人程度だった人口は、各地から移住者を受け入れた結果、建国時には2倍程度にまで増えていました。

満州国の建国理念

1.五族協和 満(満州民族)・蒙(モンゴル民族)・漢(漢民族)・日(日本人)・朝(朝鮮民族)の五民族が協力して暮らすこと
2.王道楽土 儒教で説かれている徳をもって治める理想的な政治体制(王道)で、理想国家(楽土)を建設すること

建国理念はとても崇高なものでしたが、現実は理想とは程遠く、民族同士の対立が絶えなかったといわれています。

満洲国執政・愛新覚羅溥儀

満州国の国家元首にあたる執政には、清王朝の最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)を擁立しました。この「執政」というのもあくまで建前的なものにとどまっていて、政治の実権は関東軍が握っていました。つまり、国際世論の批判を避けるため現地民族の皇帝を立てたのです。満州国の役人の半分近くは日本本土からきた日本人で、役職が高いほど日本人が占める割合が高かったといいます。また、民主的な選挙も一度も行われることはありませんでした。

満州国に移住した人々

奉天入城

では、この満州には現地民族の他にどのような人々が移り住み、生活していたのでしょうか。

満州に移り住んできた人々一覧

  1. 日本軍(関東軍)関係者
  2. 南満洲鉄道とその関連企業の関係者
  3. 日本の財閥系企業関係者
  4. 満蒙開拓移民
  5. 朝鮮人移住者
  6. 中国本土からの移民

満州関連企業関係者

満州国は新しい国で、人口も増えつつ経済的な発展も早かったため、日本企業だけでなく、外国企業も多く進出していました。そのため、開拓移民(主に農家)とは別に、企業の関係者も満州に移り住んできていました。自分の先祖がこのような満州関連企業の関係者だったという話は、今でもよく聞きます。

満蒙開拓移民

満蒙開拓移民は日本の国策として移住させられた日本人のことで、満蒙開拓団とも呼ばれます。多くは農地を相続できない農家の次男三男や、土地を持たない小作人で、日本本土(内地)からの移住者の大半を占めていたのがこの開拓移民です。

開拓移民は開拓地を国から分け与えられ、農業に従事することになりますが、戦争がはじまり日本兵が人手不足になってくると、満州に移住してからすぐに軍に招集されるケースが増えてきて、次第に移住先の村は女性・子供・老人ばかりになっていったといわれています。

満州では現地住民に恨まれることもしばしばで、移り住むには不安も多かったため、自ら進んで満蒙開拓団に手を挙げる人は実はほとんどいませんでした。そのため、拓務省(植民地の統治を監督する省庁)、農林省、自治体の長などが連携して開拓移民の人数集めのノルマ達成に奔走していたのです。

さらに日中戦争(1937年)がはじまると、大戦景気などの影響で本土の人手が足りなくなり、満蒙開拓移民の確保はより一層困難になりました。そこで考え出されたのが「青少年義勇団」という制度です。

満蒙開拓青少年義勇団

満蒙開拓青少年義勇団とは、日本本土の数え年16歳から19歳の青少年を満州国に開拓民として送出する制度です。日中戦争以降の、開拓民送出事業の中心になりました。本土から成人移民の確保が困難になったことから、より若い青少年が対象になったということです。この青少年義勇団だった方は当時かなり若かったため、今でもまだご存命の方がいらっしゃいます。

朝鮮人移住者・中国本土からの移民

日本の本土だけではなく、朝鮮半島から新しい環境を求めて満州に移住してくる朝鮮人もいました。当時の朝鮮は日本領だったため、“朝鮮籍の日本人”として満州に渡りました。さらに当時は中国本土では内戦が続いていたため、安住の地を求めて満州国に移住する中国人も少なくなかったといわれています。

このように、現地住民である満州人、漢人に加えて、日本人、朝鮮人、中国人、その他の外国人と、様々な民族が移民として満州国に移り住んだことで、満州は次第に複雑な問題を抱えるようになっていきました。さらに日本政府の積極的な国策によって満洲国内に用意された農地に入植する開拓民は増え、満洲国の人口は急激に増加していきました。

しかし一方で、関東軍が満州事変によって半ば強引に満州全域を支配した経緯からしても、現地住民からの反発は大きかったと伝えられています。そしてこの現地住民との軋轢は、終戦時まで民族間でずっとくすぶりつづけてきた問題だったのです。

太平洋戦争の勃発・終戦へ

1941年に太平洋戦争が勃発すると、日本軍は兵力不足を補うため根こそぎ動員を行った結果、満州移民の成人男性はほとんどいなくなり、日本人入植地は女性、子供、老人ばかりになり、土地を守る力は失われてしまいました。そしてさらなる戦況の悪化にともない、満州移民(日本人)の立場も不安定なものとなっていきました。

満州国の崩壊・その後

戦車

太平洋戦争も大勢が決し、1945年8月に広島と長崎に原爆が投下された日本の敗戦直前に突然ソ連(旧ロシア)が日ソ中立条約を無視して満州に侵攻してきたことにより、満州国は崩壊しました。このときから敗戦を悟っていた関東軍の首脳たちは、多くの日本人居留民を置き去りにして脱出していたといわれています。一方の満州に残された日本人居留民は多くの苦難に見舞われることになりました。

日本人居留民の悲惨な運命

満州に残された日本人は、ソ連軍により殺傷・略奪されたり、現地住民から襲撃を受けたりしたことで、多くの犠牲者・死者が出ました。開拓村の中には終戦に絶望し、集団自決をした村もあったといわれています。

戦闘終了後、ソ連軍は関東軍兵士を捕らえてシベリアなどの強制収容所に送り、過酷な強制労働を課し(シベリア抑留)、さらに満州の工業地帯から工業機械等の略奪まで行ったのです。

困難をきわめた引揚事業

舞鶴港

「引揚げ」とは、満州のような旧日本軍の占領地に残された日本人を本土に送還することをいいます。戦後の混乱の最中、この引揚げ事業もスムーズにはいきませんでした。

日本人居留民は、日本に戻る途中でも多くの死者、行方不明者、感染症による病死者を出しました。ソ連軍に捕らえられてシベリアに抑留された男性たちは数年間過酷な労働環境に置かれ、本格的に帰国できるようになったのは終戦から5年ほど経った1950年頃からでした。さらに中国には残留日本人孤児が残され、長く国際問題にもなりました。

終戦時、兵士ではない満州開拓移民は約30万人ほど残されたといわれていますが、終戦直前のソ連の参戦でそのほとんどが国境地帯に取り残され、結果的に日本に帰国できたのはその3分の1程度だったといわれています。この数字からしても日本の国策によって満州国に渡った日本人たちは、多大な犠牲を払ったことがわかります。

戦争の火種になり、民族同士の争いを生み、多くの難民を生んだ。これまでご紹介したとおり、満洲国にはこんな歴史があったのです。

満州に渡った先祖を調べる方法

それでは自分の先祖や親戚が満州に渡ったことがあるという言伝えがある場合に、どのような記録を調べれば詳しい情報が得られるのか。ここでは3つの方法をご紹介します。

戸籍の記載から満州の住所を調べる

満州国は国籍法を定めなかったため、「国民」の規定はされず法的に「満州国民」というものは存在しませんでした。そのため、満州に移住した日本人は、必ず日本の戸籍に入ったままの状態であって、本籍地も必ず日本の本土のどこかに定められています。戸籍に関する手続も、満州にいる大使に届出を行い書類が本土に回送されることで、日本の戸籍に登録できる運用でした。そのため本籍地が満州国ということは有り得ず、あくまで子供が生まれた場所や家族が亡くなった場所の記載として満州国の表記が出てきます。

満洲國奉天市大和區〇〇町〇〇番地に於テ出生(または死亡)

具体的にはこのような表記で戸籍に記載されていて、そのことから自分の先祖が当時満州に移住していたことが読み取れます。さらに詳細な住所まで読み解くことで、満州国のどの住所で生活していたのかも知ることができます。さらに国立国会図書館や国立公文書館などで満州の地図・文献を探し、この土地が当時どのような場所だったのかまで調べることで、ご先祖の暮らしぶりが少しイメージできるようになります。

国立公文書館での資料探し

国立公文書館には満州国に関する多くの公文書が保存され、閲覧・公開されています。外国から引き揚げてきた日本人居留民の名簿である「在外地引揚者名簿」等も残っていることから、戸籍の記載からご先祖が満州国に移り住んでいたことがわかったら、国立公文書館で文献を探してみると、ご先祖に関係する資料が見つかる可能性があります。

▼国立公文書館のページ▼
国立公文書館デジタルアーカイブ(外部サイト)

厚生労働省への資料開示

厚生労働省は、海軍の軍歴証明書だけではなく、シベリア抑留の記録も管理・管轄していて、死亡者の名簿はインターネット上でも公開されています。ご先祖の軍歴証明書など、公開されていない記録はロシア語から翻訳する作業等もあるため、数ヶ月程度の期間はかかりますが、資料が残っている場合は開示してもらえます。ご先祖が海軍所属だった場合や、シベリア等の強制収容所に抑留されたご先祖(亡くなった方も含む)がいる場合は厚生労働省に資料の開示を請求することで、ご先祖の詳細な足跡が辿れるかもしれません。

▼厚生労働省のページ▼
厚生労働省|ロシア連邦政府等から提供された抑留者に関する資料について(外部サイト)

資料の請求方法は、軍歴証明書の請求方法とほぼ同じですので、詳しく知りたい方は以下の解説記事もご一読ください。

「軍歴証明書の取り方」の解説記事軍歴証明書の取り方を詳しく解説!戦時を生きた先祖の足跡を辿る

満蒙開拓平和記念館

満州に渡ったご先祖の暮らしぶりをより深く知りたい場合は、長野県にある満蒙開拓平和記念館に足を運んでみる方法もあります。長野県は満蒙開拓団を最も多く出したことでも知られていて、この記念館は国内でもっとも満州移民に関する情報がまとまった施設となっています。実際に記念館に出向き、様々な展示物を見てみることで当時の暮らしがどのようなものだったのか、どんな苦難があったのかを自分の目で見て知ることができます。

運営者 一般社団法人満蒙開拓平和記念館
所在地 〒395-0303 長野県下伊那郡阿智村駒場711-10
HP https://www.manmoukinenkan.com/

まとめ

今では戦争が終わってから75年が経過し、戦争を知らない人が大多数ですので、昔日本に外国の領土や租借地があったなんて想像し難いことだと思います。しかし、戦前はイギリスを筆頭として欧米列強が各地に植民地を持っていることが当たり前の時代でしたので、当時としては決して珍しいことではありませんでした。

満州に関することも、歴史の教科書で学ぶのと、自分の先祖のこととして学ぶのでは動機や意義も大きく変わってきます。満洲国について知ることは、日本人のつらい歴史を呼び起こすことでもあるため、知れば知るほど気分が落ち込み、つらい気持ちになるかもしれません。

しかし、今の平和な日本が多くの犠牲の上に成り立っているものであることを知ることは、現代を生きる日本人が忘れかけている平和の尊さを認識する上でも大切なことですし、同じ過ちを二度と繰り返さないための戒めにもなるものです。是非この機会に、ご先祖調査にもチャレンジしてみてください。