目次
はじめに
日本全国津々浦々、その全ての「名字」を合わせると、その数は10万種類を超えると言われています。これだけの数があるなんて凄まじいですよね。確かに学生時代を思い起こしても、自分と同じ名字の友人は多いようで少ないものです。
しかし、その中でとにかく目に付く名字と言えば「佐藤さん」でした。日本全国の名字ランキングでも、鈴木さんや高橋さん、田中さんといった定番の名字を差し置いて、堂々の1位なのも納得です。
でも、ちょっと考えると不思議ですよね。田中さんや鈴木さんは何らかの地名を思わせる名字なので、何となく多いのも理解ができるのですが、「佐藤さん」が東北を中心に全国的に多い名字になっているのはなぜなのでしょう?
そんな佐藤さんにまつわる秘密を、日本で圧倒的な権力を握ったとある一族の家系図や様々な豆知識から解き明かしていきましょう。
「藤」の字にまつわる名字の始まり
佐藤の由来を考える時にポイントとなるのは、この名字を「佐」と「藤」の2つに分解することが必要となります。そして「藤」の字を見ると、日本史が好きな方はある有名な一族のことを思い出さないでしょうか?
そう、1000年以上もの間権力の中枢にあった一大勢力の「藤原氏」です。
その始まりは、日本の一大政治改革の1つである「大化の改新」で中心的な役割を果たした、中臣鎌足です。
藤原氏の始祖「藤原鎌足」
大化の改新における中心人物であり、その後天智天皇の右腕としてその才能を発揮した彼は、天皇より「藤原」の姓を賜ります。ですが実は、彼がこれを受けたのは亡くなる前日のことなのです。
そのため、生きているときの彼の功績や歴史を語るときには「中臣鎌足」と呼び、藤原氏の始まりの存在として彼を語るときは「藤原鎌足」と呼びます。大化の改新は日本の歴史の基点でもあり、この藤原鎌足から始まる藤原氏は、源氏、平氏、橘氏と並んで「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」と呼ばれ、多くの日本人のルーツである四大性の一つとなっています。つまり、藤原鎌足は、家系図作りやルーツ探しの世界では“超”有名人ということなのです。
藤原氏の家系図から見る「佐藤」の由来
さて、そんな藤原氏の始祖である藤原鎌足から、一族の家系はこんな風に紡がれていきます。
ちなみに藤原氏を家系に起こそうとすると、その量は非常に膨大になってしまいます。なので、今回は「佐藤」に関係する家系だけを抜き出してみます。
最後に登場する「藤原公清」という方が今回の話の真相になるわけですが、系図の真ん中にいる「藤原秀郷」という方も馴染みのある有名人です。
彼は別名「俵藤太」という名乗りを持っています。そう、あの有名な伝説「百足退治」の主人公でもあるんですね。また彼は平将門を討った人物としてもとても有名です。
佐藤の始まりと言われている「藤原公清」
いきなりその出自を出してしまいましたが、この「藤原公清」こそが、佐藤氏の始まりであるというのが定説です。ですがそんな彼が佐藤氏の始まりという考えにも、さらに3つの説があるとされています。
佐藤氏の説その1:左衛門尉説
藤原公清は、その生涯で「左衛門尉」という重要な役職に任命されています。そこで、役職の「左」の字を取り「佐藤」と名乗るようになった。
佐藤氏の説その2:下野国佐野という地名説
藤原公清が下野国(今の栃木県あたり)の佐野という場所に住んでいたことから、「佐野の藤原氏」ということで「佐藤」を名乗るようになった。
佐藤氏の説その3:佐渡の藤原氏
藤原公清が佐渡(新潟県)の国司の職にあったことから、「佐渡の藤原氏」ということで「佐藤」を名乗ることとなった。
役職や地名、それぞれに説がありますし、実はこれ以外にも数々の説があります。ただ、この藤原秀郷の子孫である系図が佐藤の始まりになったという考えが一般的なようです。
そして、これらの説の地名をちょっとご覧下さい。下野国佐野も佐渡も、北関東と北信越という本州の北側に多いことがわかります。そして彼らの一族の中でもとりわけ有名な「藤原秀郷」への血脈というのは、東北を中心に一大勢力を構えた「奥州藤原氏」につながっていくのだそうです。
藤原公清の一族は奥州藤原氏の血筋ではありませんが、その住まいや赴任地には近しいところがあります。佐藤さんという名字の人は特に東北で多く目にすることができるのですが、こうした藤原氏の勢力の分布を見るとなんとなくその理由も見えてきそうですね。
佐藤以外にも数多くの名字を生み出した藤原氏
佐藤という名字の由来が藤原氏にあることが見えてきました。そしてそれが地名や役職がその派生の要素になっているのですが、他の「藤」が着く名字も、実は同じような理由で広がっていったのです。
これまで見てきた佐藤さんを始め、近藤さんや安藤さん、伊藤さんや加藤さん、そして遠藤さんなどなど…。藤原氏というのは、想像以上に日本の名字に関連が深いようですね。
庶民にも佐藤が浸透した理由は明治のとある政策にあった?
ここまで藤原氏を源流にもつ佐藤さんの由来を紐解いてきたわけですが、ここで1つ疑問が出てきます。確かに藤原氏が佐藤という名字の由来なことはわかりましたが、彼らはあくまで日本における一大権力者なわけです。
いくら彼らが数が多いからといっても、今佐藤という名字を名乗っている方全員が藤原氏にゆかりのある人とは考えにくいでしょう。なんせ佐藤さんという名字の人だけでも全国に200万人近くいるわけですから。
そんな疑問を解消する1つの答えに、一般市民も名字を名乗ることが許されるようになったある明治の政策があると言われています。
明治に公布された「平民苗字許可令」と「平民名字必称義務令」
明治3年に公布された「平民苗字許可令」は、その名の通りすべての国民が名字を名乗ることを許された法令です。ですがこれが公布された直後は、庶民の方々は「名字を名乗るのにお金を取られるのでは?」と疑ってしまい、なかなか名字の普及が進みませんでした。
あまりに名字の普及が進まなかった政府は、さらに明治8年「平民名字必称義務令」を公布し、半ば強制的に名字を名乗らせました。ちなみにこのとき、庶民の中にはなんとも珍しい名字を名乗る人も出たそうで、それが今、約20万という膨大な名字が誕生するきっかけの1つとなっているといわれています。
一例として今のメジャーとなる名字が紹介された?
庶民にも名字が普及するようになった明治。先ほど紹介した2つの法令などを通じて地名や宗教など様々な背景を元に庶民も名字を名乗るようになりました。そんな名乗る名字の一例として、政府はいくつかの例を紹介したということらしいのです。
その例の中にあったのが、「鈴木」や「佐藤」など。そう、今全国で広く目にする名字が、ここで紹介され、そしてそれを庶民がちょうどいいと選んだことによって、鈴木さんや佐藤さんが世の中に多く存在するようになったという説があるんです。
そして、先ほど紹介した佐藤氏の由来にあたる藤原氏の源流の1つは東北を中心に勢力を持っていました。そんな過去の歴史の名残として、東北の人々は佐藤さんという名字を多く選択するという結果があったのかもしれませんね。
まとめ
佐藤さんという、日本で最もメジャーな名字の由来をたどる旅はいかがでしたか?今回はあくまで定説の1つを紹介したに過ぎず、たった1つの名字でも数多くの由来があり、それが広まった背景には様々な歴史がありました。
皆さんの名字には、どんな由来があるでしょうか?もしかしたら家系図などでその源流をたどってみると、もしかしたら驚くほど重厚な歴史の1ページにたどり着くかもしれませんよ?