女城主・直虎の家系図を探求する

2017年に放送されたNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』の最終回。22歳で元服した若き武将井伊直政は、徳川と北条の和睦を見事にまとめあげていました。一方、かつての許嫁である直親の子、幼名井伊万千代の雄姿に安堵しつつ、ひっそりと生涯を閉じる直虎。その直虎とは、一体どのような家系に生まれ、またどれほどの人々と関わった人生を送ったのでしょうか。

直虎の眠る龍潭寺

この壮大な大河ドラマの主人公である井伊直虎。今は、かつての遠州、現在の浜松市にある龍潭寺に眠ります。ここは井伊家の菩提寺なのです。直虎の横では、ついに今生で結ばれることはなかった許嫁の井伊直親も、同じく眠りについています。

女城主・直虎の家系図を探求する

龍潭寺のウェブサイトでは、井伊家の家系図が掲載されています(興味がある方は、ぜひご覧ください!)。この家系図では、直虎の曾祖父にあたる井伊家第20代当主直平から、直虎の養子である直政の息子、第25代当主直孝までが網羅されています。さらにはあの江戸幕府を開府した、徳川家康との接点までも垣間見ることができるのです。

波乱の続いた戦国の世から、のちに太平の世と謳われる江戸の時代へ。それは歴史が大きな舵を切ってゆくあけぼのの光景が目に浮かぶような、大変に興味深いものです。直虎は、その人生において、まさに日本全体が激動し続けていた時代を走り抜いたと言ってもよいでしょう。

同時代の人物から、直虎の生きた世界を捉えよう

さて、ともすれば“戦国女武将”、“女城主”といった勇猛果敢なイメージがついてまわる井伊直虎。実際のところはどんな女性だったのでしょう。その実像については、今でも諸説が交錯しています。そこで今回は、現在判明している史実や資料から、まずはその生い立ちと遍歴に迫ってみましょう。

これほどに有名な人物でありながらも、直虎は生まれた時の名前も、正確な生年も不明です(なお、この記事では彼女を“直虎”という表記で統一しています)。しかし、生年については没年と推定の没年齢から、おそらくは天文年間(1532~1555年)のはじめ頃ではないだろうかと言われています。なお、かの織田信長は天文3年生まれ。

そのため、信長とはほぼ同世代、ということになるでしょう。ちなみに信長は、激動の人生の末、1582年6月の本能寺の変で最期を迎えますが、その3カ月後にやはり直虎も生涯を閉じています。怒涛のような人生を駆けた両者が、同じ時代に存在していた…。そこに歴史の持つロマンを感じずにはいられません。

直虎の人生①出家し、女性領主となるまで

ここからは、直虎の具体的な生い立ちと人生について眺めていきましょう。直虎の父は井伊家第22代当主である直盛。直虎には男兄弟がいませんでした。そのため、将来の婿とするべく、直盛の従兄弟である井伊直親とは幼少より許婚の間柄でした。ところが直親の父である直満は家臣によって陥れられ、主君である今川氏の手で殺害されてしまいます。

その結果、まだ幼い直親は信州に身を隠すこととなり、行方不明となってしまいました。深い失意の中、直虎は龍潭寺で出家して次郎法師を名乗ります。その後約10年が経ったとき、直親は井伊家の元に戻ってきました。しかし直親はその時すでに正室(奥山ひよ、大河ドラマでは“しの”となっていました)を娶っていたのです。数年後、直親には息子の虎松が誕生することになります。

しかしその後、出家していた直虎に転機が訪れます。父の直盛が桶狭間の戦いで戦死。直親も今川氏の家臣に謀殺されてしまったのです。井伊一族が存亡の岐路に立たされますが、この時は親戚のとりなしにより何とか事なきを得ました。ところがその後も度重なる戦乱の中、一族や忠臣が死亡。重要な家臣がいなくなってしまっただけはなく、再び井伊家そのものの存続に危機が訪れます。当時、家督を継承できる男子はただ一人、まだ幼い虎松しかいなかったのです。

どうすれば良いのか。直虎の大叔父にあたる龍潭寺の南渓和尚と、謀殺された直親の未亡人である奥山ひよは話し合いました。その結果、南渓和尚を後見人として次郎法師こと直虎は還俗し、井伊家当主として井伊直虎を名乗ることになったのです。現代にまで伝わる“直虎”の名は、ここで初めて歴史に登場することになります。

なお、当時、女性でありながら領主となった直虎は珍しい存在で、彼女は“女地頭”とも呼ばれるようになりました(この時代の“地頭”とは鎌倉時代とは異なり、“領主”という意味合いを持っています)。

直虎の人生②戦乱の世に翻弄される日々

ところが直虎が領主となって数年後、家臣の小野道好による裏切りで、井伊家は居城である井伊谷城を奪われてしまいます。この背景には今川家の指図もあったといわれていますが、ともあれ居城も領地も失った直虎は、またも決断を迫られます。

当時、頼ることができたのは、甲斐(現在の山梨県)の武田信玄と三河(現在の愛知県東部)の徳川家康。直虎が居を構えていた遠州(現在の静岡県西部)には武田氏に従う者も多い中、直虎の選択は徳川氏でした。その後、徳川氏と忠臣の協力により、直虎は井伊谷城と領地の奪還に成功します。

しかし安堵もつかの間、今度は武田氏の侵攻を受け敗北。血族や兵、領地を失い、徳川氏の陣地に逃亡せざるを得なくなります。以後、徳川氏と武田氏は戦を交え続けますが、徳川氏は度重なる敗北を喫しました。ところが、徳川方の野田城が攻め落とされた直後、状況が変わります。

武田家の当主である武田信玄が病に倒れたのです。信玄の病状悪化に伴い、武田軍は遠州から甲斐へと撤退。それに伴い、ようやく直虎は井伊谷城を奪還することに成功します。

ここまで、直虎は殆ど安住の地を見つけられることもなく、流転を繰り返しています。このように、彼女の人生は、常に荒波のうねる海のような戦乱の世を生き抜かざるを得ないものだったのです。

勇ましい武将? 機知に富む知将? 直虎の実際の姿とは

ところで、直虎は一体どのような領主だったのでしょうか。先述したとおり、直虎は現在、勇ましい武将といった人物像でよく語られています。しかし実際には、むしろ内政外政に長けた知将だったようです。

直虎の手腕をよく示しているのが、徳政令に関するエピソードです。当時、ききんで困窮していた農民は、徳政令による借金の帳消しを要求。ついに井伊家は、主君の今川氏からも徳政を行うように指示されてしまいます。しかしそこには、密かに井伊家を潰そうとしていた家臣や主君のもくろみも絡んでいました。

直虎は、徳政を実行すれば井伊家が経済的に立ち行かなくなり、そうでなければ今川家や領地の農民を敵に回すという、八方ふさがりの状況に追い込まれてしまいます。

そこで直虎は、金融業も営んでいた龍潭寺や、懇意にしている商人たちに徳政の減免や免除を約束したうえで資金調達を命令。一方、今川家には色々理由をつけて時間稼ぎを行います。こうして井伊家の財政を守るための入念な準備ののちに徳政を実行し、直虎はついにこの危機を切り抜けたのです。この時の見事な立ち回りは、当時の世で直虎が名声を得るきっかけとなりました。

母としての直虎かつての許嫁の子に注いだ深い母性

幼少より過酷とも言える人生を歩み、また領主としても、戦国の荒々しい世で国を守るべく綱渡りの日々を送った直虎。そんな彼女にも、実は母としての横顔がありました。

直虎は領主となって以降、かつての許嫁である井伊直親の遺子、虎松を密かに養子として育てていました。虎松が14歳の時、直虎は彼が武士として十分な年齢となったと判断。龍潭寺の南渓和尚や、虎松の生母であり井伊直親の未亡人でもある奥山ひよと相談の上、当時力を拡大していた徳川家に士官させることを決断します。

しかし、そもそも虎松が徳川家康の目にとまるかどうか。それは大きな賭けでした。そこで直虎は一計を案じます。その年、家康が大好きな鷹狩りを初めて行ったタイミングで、虎松を家康に披露したのです。鷹狩りは広い土地で行われます。その中で目立つように、直虎と生母の奥山ひよであつらえた着物を着せて。さらには直虎自身が描き上げた四神旗も持たせていました。

そこで初めて、徳川家康は虎松の姿を目にします。虎松はそれまで表に出ない存在でした。そのため、家康はすでに井伊の家督を継ぐ男子はいないと考えていたはずです。ですからその驚きは想像に難くありません。虎松が井伊直親の実子であることを知った家康は「井伊直親の子であるならば、召し抱えないわけにはいかぬであろう」という旨を語ったと伝わっています。

こうして、家康の小姓となった虎松は井伊万千代と改名。かつての井伊の領地をふたたび拝領し、一国の領主となりました。以後、彼は家康の家臣として活躍します。そして、やがては井伊直政を名乗り、「井伊の赤鬼」、「徳川四天王」の異名を得るほどの勇猛果敢さと明晰さで、戦国から江戸の黎明期に、歴史の表舞台の道を歩むことになるのです。

許嫁だった直親とはついに結ばれることなく、一時は出家するほどの深い哀しみに暮れた直虎。しかし、還俗後はその子である虎松を立派な武将となるまで育て上げたのです。その直虎自身は生涯の独身を貫き、伴侶を持つことはありませんでした。その心境はいかばかりだったのか、それを知ることは今となっては不可能です。

しかしそこには、戦乱の世の領主として計り知れない重荷を背負いながらも、子に愛情を注ぎ育て上げた一人の女性が持つ、あまりにも深い母性が浮き彫りとなっています。

直虎縁の地を訪ねてみよう

最後に、井伊直虎が縁を持つ地である井伊谷について少し述べておきましょう。現在の静岡県浜松市北区にある引佐町には、今でもその地名が残ります。冒頭でも紹介した龍潭寺はその中心に位置しています。直虎が眠るのは、境内でも一番高い場所にある井伊家の墓所。先述した通り、かつての許嫁、井伊直親の隣で彼女は眠りについています。

そのほかにも、境内には井伊家に由来のある場所が多く存在します。直虎の母、祐椿尼が過ごしていた寺院内寺院跡や直政の生母である奥山ひよが祀った子育て地蔵に神木である梛(なぎ)の木。井伊家御霊屋には歴代当主の位牌が祀られています。境内を出て参道を少し歩けば、井伊家初代当主、共保の生誕の地と言われる井戸があり、そのそばにはあの江戸後期の大老、井伊直弼の詠んだ歌の歌碑も残されているのです(井伊家の家紋が井桁の形ですが、それは逸話に由来しています)。

直虎が虎松を育て上げたあと、晩年を過ごした妙雲寺。妙雲寺は直虎が南渓和尚を講じて開山したもので、龍潭寺から徒歩で数分の場所にあります。こちらもまた、井伊家の菩提寺です。開山当時は自耕庵と称していましたが、直虎の死後、後年の追善供養による諱名に由来した妙雲寺に改められました。近年、直虎や南渓和尚の位牌や肖像画が発見され、にわかに注目を集めています。以前は非公開でしたが、現在は日にちを限定はしているものの、拝観が可能となっています。

ほかにも、井伊直政が上野(現在の群馬県)、続いて近江(現在の滋賀県)彦根の領主となるまでの間、長く井伊氏の拠点であった井伊谷城も近辺に所在しています。現在、遺構などはほとんど残っていませんが、小高い丘に点在するかつての痕跡が、往年の姿を今に伝えています。

まとめ

いかがでしたか? 今回は大河ドラマ『おんな城主 直虎』の主人公、井伊直虎に焦点を当ててその家系図を紐解きながら、激動波乱の時代を生きた一人の女性の姿を追ってみました。

信長とほぼ同じ時期に生まれ、度重なる戦、家臣の裏切り、愛する人との別れ、蠢く権謀術数…。戦に明け暮れる残酷さが支配する世に、生死ぎりぎりの淵を歩き続けながら生き抜いた直虎。その生は織田信長と同じ時期に始まり、あの徳川家康や、さらには開国の際の大老、井伊直弼にも繋がっていくのです。その家系図から見える繋がりには、時代の大きなうねりが暗示されています。

さて、あなたのルーツはいかがでしょうか。「直虎のような立派なものではない」と思われるかもしれませんが、果たしてそうでしょうか。あなたの家系を調べて家系図を作ってみれば、それが壮大な歴史ロマンへの入口となるかもしれませんよ。