ご先祖様に関心がある方で、親などから「うちの先祖は武士だった」と聞いていた方でも、分限帳で自分の先祖の名前を確認したことがある方は少ないのではないでしょうか。さらに分限帳自体は調べたけど、肝心の先祖の名前が見つからない!名前は見つけたものの、系図を復元する方法がわからない!とお困りの方も多いと思います。

そこで本記事では、この武士の先祖を調査する際の必須史料である“分限帳”について、そもそもどういった性格のものなのか、その歴史をおさらいした上で、先祖調査をする上での活用のコツや注意点について詳しく解説します。

本記事は先祖調査の中級者向けの解説になっていますので、初心者の方は、まず基本資料である戸籍集めから始めてみて下さい。

「戸籍の取り方」の解説記事家系図の調べ方・戸籍の取り方をプロが詳しく解説します!

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分限帳とは一体何?

まず分限帳の定義、目的や役割などについて解説します。

定義 「分限」とは、社会的身分・地位・財産などの意味で、江戸時代、大名の家臣の名前・禄高・地位・役職などを記した帳面(国史大辞典)
呼称 分限帳(ぶげんちょう・ぶんげんちょう)、分限録、分限録などのほか、侍帳、家中帳、給所帳、着到帳(肥前藩)なども
目的と役割 ①大名家臣団の軍事的配置を示す一種の陣立書ともいうべきもの
②家臣団に役金・米を賦課する際の台帳として作成されたもの
③家臣団に給所(知行地)を配分するための台帳として作成されたもの

分限帳の基本的な形態は、名前、役職、禄高などが記載されたその時代の「藩の職員録」のようなものですが、ひと言に「分限帳」といっても、作成する藩ごとに目的が若干異なり、名称も様々だということがおわかりいただけると思います。次に分限帳の歴史について見ていきます。

分限帳の歴史

分限帳にも歴史があり、少し細かく見ると戦国期のものから、幕末、明治初期のものまで存在し、地域ごとの特色等も存在します。これらは細かな点で色々な違いがあるため、史料をあたる上で“作成された時代・地域”を意識することが重要です

分限帳のはじまり

分限帳という名称や実質を備えたものは基本的には戦国時代に現れてきます。代表的な例では小田原北条氏の「小田原衆所領役帳」や「織田信雄分限帳」など、戦国時代の著名なものは群書類従などにも収められているため、参考までにご覧いただくことをオススメします。

国立公文書館のページ国立公文書館デジタルアーカイブ:続群書類従(織田信雄分限帳)

室町時代(1336-1467年)

分限帳が戦国時代以前に作成されていなかったというわけではありません。室町時代の応仁の乱の最中にあたる1470年には、西国の大大名であった大内政弘が、「惣名帳」という分限帳のような資料を使用した記録が残されています。このことから、室町時代に戦国大名へと移行しつつあった全国の大名や豪族の家中でも、分限帳に類似した書類が作成されはじめていたと考えるほうが自然です。

戦国時代(1467–1590年)

戦国期の大名家は若干の行政機構を備えてはいても、実質的には臨戦体制を敷いている軍事組織ですから、家臣団も血縁地縁を考慮しつつも基本的には軍事的な観点を軸として編成されるのが当然でした。したがって分限帳も当然実戦配備に近い状態で記載されており、江戸時代初期までの分限帳はこうした性格を色濃く持っているのが特徴になります。

また戦国期の分限帳は「小田原衆所領役帳」や「織田信雄分限帳」などに見られるように、石高ではなく貫高で記載されていることも特徴の一つです。これは日本全体がまだ石高制に統一されていなかったためです。このことは当時、家臣の在地性が強く土地と不可分に結びついた兵農未分離の時代背景を反映しているといえます。

国立公文書館のページ国立公文書館デジタルアーカイブ:小田原衆所領役帳

江戸時代(1603–1868年)

真田伊賀守信利上州利根郡沼田城主家中分限

徳川家康の統一政権以後、江戸時代に入ると260年余りの未曽有の平和な時代ということもあり、分限帳の性格、構成も次第に行政機関の職員録としての性格を強めていきます。兵農分離が進み石高による記載が常態化し、席次や家格といった、藩組織の秩序ある安定的運営に欠かせない情報が掲載されるようになりました。

また下級・少禄の家臣に至っては、石高ではなく蔵米取で「何百俵」あるいは「何人扶持」、「金〇両」といった形での記載が顕著になりました。江戸時代になると、多くの武士はかつての“土地の小領主”ではなく、蔵米や換金された金銭で年に数回“給料”を受け取りながら行政機構の一端を担う、いわば地方公務員のような存在になっていました。こうして江戸時代の分限帳の基本形が出来上がったのです。

国立国会デジタルコレクション真田伊賀守信利上州利根郡沼田城主家中分限

江戸時代の分限帳に書いてあること

名前、禄高、地位、役職

私達の多くがメインに調べていくことになる、江戸時代の分限帳に書かれている内容は上に掲げたようなものです。

武官と文官の違い

江戸時代の武士の序列

江戸時代の行政機関である幕府・諸藩では、番方(武官・軍事部門)の編成はいくらか形骸化した時期もありながらも幕末まで続き、軍隊組織の性格を色濃く残していました。しかし歴史の大きな流れでいえば、江戸時代は番方よりも役方(文官・役人)が重視され、学問の普及と連動するように儒者などが掲載されるようになったことが特徴です。もっとも儒者などの場合、掲載=仕官、藩士ではないことには注意が必要です。

また番方と役方のうち、軍事部門である番方が高禄であっても大番頭、組頭、その他構成メンバーが大枠で記載されるのに対して、役方(文官・役人)は時代とともに役職が細分化され、小禄の者でも比較的個別かつ正確に記録されるようになったことから、職員録の様相を呈してきたといえます。

明治初期~廃藩置県まで(1868–1871年)

明治初期の行政機関の官員録(職員録)になると「大参事」など明治維新以前には存在しなかった名称の役職が増え、禄高も10分の1程度に大きく減額され家格のようなものは消えました。つまり現代の私達がよく知る「職員録」のようなものになっていき、明治4年の廃藩置県を迎えることになります。当然「幕府」や「藩」がなくなれば、同時に分限帳の歴史も終わりを迎えることになります。

こうして分限帳を時代区分ごとに整理してみると、分限帳→官員録→職員録の流れが何となくご理解いただけると思います。その意味では江戸時代の分限帳は現代の職員録の先祖のようなものだったといえます。

このように、分限帳をあたる上では“どの時代の史料なのか”を意識することが大切になります。

分限帳の作成者

兜

分限帳の作成者については、戦国時代などの古い時代はよくわかってはいません。江戸時代は、幕臣の分限帳についてどのように把握、作成、保管、管理されていたのかはよくわかっていないようです。『江戸幕府旗本人名事典』によれば、

  1. 幕閣に直属する奥祐筆が整理管轄
  2. 役職者はその頭、支配が管理し、非役は寄合肝煎・小普請支配が管理
  3. 俸禄管理として、勘定所が知行者・蔵米者を把握していた

このように推測されていて、諸藩も概ねこのようなものだったと考えられます。

また、分限帳の作成者は大名ばかりではなく、大名の家臣などもその家自体の分限帳を作成しています(尾張藩「渡辺半蔵家分限帳」など)。また部署ごとの分限帳としては江戸城大奥でも女中分限帳が作られていました。また、武士ではない町人の長者番付などが分限帳と呼ばれることもありました。

分限帳の探し方

自分の先祖が武士だった場合、分限帳は先祖の大まかな暮らしぶりまで推測できる最重要史料となります。次に分限帳の探し方について解説します。

A.ネットで検索

先祖調査でも、調べたいものがあるときに、まずネットを利用するのは基本となります。地元の資料の検索は比較的容易ですが、ネット検索により遠く離れた地に地域史料が所蔵されている例を発見することがあります。こうした研究機関のデータベースには翻刻されていない陪臣の分限帳が散見されます。

B.地域史料で調査

たいていその藩の所在した県、市町村の地域史料に所収されています。なお大きな図書館にはたいてい群書類従がありますので、一度は手に取ってみると良いです。

この2つが基本的な方法になりますが、適宜図書館・資料館のレファレンスも活用してみることをオススメします。

分限帳の残存状況は?

そもそも分限帳とはどれくらい残っているものなのでしょうか。研究者の調査結果によると、幕臣よりも諸藩のほうが比較的よく残っているといわれています。これは意外な話ですが、おそらく江戸幕府の崩壊があまりにも急速であり、関係者の多くが短期間に一斉に静岡へ移らねばならず、さしあたり必要ではない過去の膨大な記録まで移管する余裕がなかったためといわれています。

諸藩の分限帳の多くは今でも残っている

諸藩(地方)の分限帳などは、その主要なものはたいてい翻刻され、影印本(古文書を写真撮影してそのまま印刷したもの)が出ています。これらは概ね藩の所在した地域の市史類の資料編や研究紀要に所収されています。影印本はもちろん古文書読解の力を要しますが、記載内容自体は基本的には定型文のようなシンプルなものがほとんどなので、同じ古文書でも手紙などよりよほどわかりやすいと思います。

先祖の名前が見つからない場合

目当ての分限帳は見つかったのに、自分の先祖が見つからない!…これは“先祖調査あるある”の一つですが、かなり切実な問題でもあります。様々なパターンがありますが、その主な原因は以下の通りです。

先祖の名前が見つからない5つの原因

  1. 武士全員が載ってるわけではない
  2. 名前が違う
  3. 名前が同じ
  4. 実は違う分限帳を調べている
  5. 単純な誤記・脱漏

武士全員が載ってるわけではない

家系調査、先祖調査という点で、分限帳調査において留意すべきことは「分限帳とは武士“全員”の職員録ではない」「武士の戸籍簿ではない」ということです。驚かれる方もいらっしゃいますが、分限帳に記載されている人々は、その藩に仕えた中間や足軽までを含めた人々のうち、概ね1、2割程度の人と認識しておくべきです。

江戸時代の分限帳の基本的構成は、大まかにいって家老など藩首脳が筆頭に記載されたあとは、番方と役方、その他が記載されています。番方(軍事担当)は番頭(ばんがしら)や組頭(くみがしら)以外は主立つ士分を除けば名前の記載がないものも多く、足軽にいたっては足軽十人などといった人数の記載のみにとどまっています。

武士と庶民の間の「卒族」

江戸時代に軽輩と呼ばれることもあった足軽や中間といった人々は、一般的には明治時代に「士族」とは別に「卒族」に分類されました。とはいえこの分類には相当な混乱と問題があり、先祖は武士だったと伝承のある家で、家に刀なども残っている、という家の一定数がこうした武士と庶民の中間にいた人々の子孫です。

こう書くと足軽や中間といった軽輩と呼ばれた人々のみが省略されているように思いますが、ことはそう簡単ではありません。藩主の直臣の家であっても、記載されるのは基本的に当主や、分家しても出仕している当主に限られます。したがって現代的観点でいえば妻も子もいる武士であっても、その方たちが三男、四男などで藩に出仕する立場ではない場合、彼らは全く分限帳には載りません。今より子だくさんだった時代の、「載っていない」けれども確実に「実在した」人々です。

家臣の家臣にあたる「陪臣」の存在

陪臣とは家臣の家臣をいいます。結構な禄高を食んでいても陪臣(ばいしん)の場合は、一般的には分限帳には記載されません。たとえば大藩の場合、家臣なのに石高が大名並みの1万石を超える家がいくつもあります。たとえば加賀百万石前田家の筆頭家老・本多家は5万石で、1671年の本多家家臣団は足軽小者468人を含め、合計872人もいました。こうした陪臣は「藩」の分限帳には記載されないことがほとんどです。

転籍・出向する武士もいた!?

さらに大身の家臣に藩から藩士が付属される場合や、大藩から支藩に転籍、出向する場合もあります。このような場合に本藩の分限帳にどの程度正確に記載されているのかは、時代や藩による差もあり、個別に調査するしかありません。こうしたあいまいさが、全体の正確な把握を難しくさせているのです。分限帳は武士“全員”の職員録ではないという点で、戸籍や在籍名簿とは全く異なる性質のものと考えましょう

名前が違う

これも武士の先祖調査ではよくある注意点です。江戸時代の武士は実によく改名していました。かつて私達が調査したある武士でも7つほど名乗りのある武士がおり、それが同一人物であると断定するのに幾つもの史料を照合しなければならなかったことがありました。

苗字を変える武士もいた

さらに難しいのは「苗字(姓)」を変える武士の存在です。改姓はたいてい母方、妻方などなんらかの血縁や養子、藩主から苗字を賜ったなどの事情で変わることが多いですが、分限帳のみではこれらの事実はまずわかりません。研究されている方にとってはありきたりの話ですが、週末ぐらいしか調査に時間がかけられないという方の場合、この問題だけで1年2年が過ぎてしまう、ということはよくあります。

名前が同じ

これは意外に思われるかもしれませんが、先祖と名乗りが同じといっても直系の先祖とは限りません。慎重な調査が必要です。もちろん、一般論としては、先祖がいたとの伝承がある同じ藩なら、苗字も名前も同じであれば同一人物(ないし親子など同系統)であろうと推定してあながち間違いではありません。

今も昔も紛らわしい…同姓同名の人物

しかし問題は近隣の藩や幕臣のなかに同姓同名の者をみつけた場合です。昔の人は先祖にゆかりのある名前を付けることが多く、それは武士も同じでした。先祖を同じくする人々で、仕える藩が違う場合、ほぼ同時代に同名を名乗っている例は時折みられます。

一族が幕臣、大名、諸藩の家臣に分散している家は実はきわめて多いです。他藩にいた一族を発見した場合、壮大な一族の系譜復元の端緒をつかんだ点で、大変喜ばしいことですが、自分の直系の先祖かどうかという点では、全然違う方に系図の線を引いてしまいかねないため、その点十二分に注意する必要があります。

実は違う分限帳を調べている

A.その時代はその藩に仕えていない場合

そもそも自分の先祖が載っているはずがない分限帳を調べてしまっている場合もあります。たとえば自分の先祖が“その時代はその藩に仕えていない場合”などです。藩主家がころころと変わる地域で漠然と先祖は武士だった、と伝え聞いている場合は慎重に調査しなければいけません。例えば愛知県豊橋市の吉田藩は藩主家が10家も交代しています。

「先祖は〇〇藩の武士だった」という程度にしか伝わっていない場合、“それはどの大名家の時代だったのか”という視点を持つことが大切です。具体的な伝承がなく先祖の武士の名前しか手掛かりがない場合は、その名前を片手に各家の分限帳を丹念に読み解いていくしかありません。そうするとどこかの時代には分限帳に名前が現れてくる可能性があります。

B.同じ藩でも藩主家が違う場合

また“同じ藩でも藩主家が違う場合”もあります。「藩主が転封されれば家臣はみんなついていく」―これが藩士の基本的な動きなので、家伝で「〇〇家に仕えていた」ということがはっきりしているのならば、同じ藩の他の大名ではなく、家伝のとおり〇〇家の記録を丹念に調べていく方が正しい調査方法といえます。

そもそも調べる分限帳自体が間違っていれば、いくら調べても自分の先祖の名前が見つかることはなく…全ての努力が徒労に終わってしまいます。きちんと可能性のある史料を見つけられるように、当時の時代背景も意識しておくようにしましょう。

単純な誤記・脱漏

最後に、こればかりは仕方ありませんが、同じ藩の分限帳でも作成時代や意図、作成担当者によって記載範囲に多少の差があり、全体の基準を考えると記載されるはずの人物や役職が漏れていると思われるものもあります。

活用上の注意点

これまで読んだだけでも、分限帳が少し厄介な史料だということがご理解いただけたと思いますが、注意点はまだあります。私達が先祖調査の現場で出くわした経験から、いくつかの注意点を紹介します。

信憑性の問題

分限帳が懐古的趣味から後世に作られたような今川家の分限帳のようなものの場合、基本的には信憑性が低いといえます。しかし現実にはこうした分限帳はわずかです。一般的な江戸時代の各藩の分限帳はたいてい市史類編纂の過程で翻刻されたり、信憑性についても専門家が非常に細かく検討しています。そのため信憑性について(誤記、転写ミスなど含めて)疑義がある場合は、たいてい同一書籍や同一叢書内になんらかの記載がありますので、丹念に郷土資料を読み込むと良いでしょう。

評価がひっくり返ることもある

また、かつて信憑性が低いといわれていたような分限帳であっても、研究者が学術雑誌などで検討、検証し信憑性が高いことを明らかにされた例もあります(里見家分限帳など)。目的の分限帳についてネットや図書館のデータベースで調べ、これについて言及している各種の論文などもひろく検索し、調査を続けることで、専門家には及ばずとも、分限帳に記載された自分の先祖についてより多面的に理解できるようになるはずです。

武士ではない人物も載っている!?

分限帳に記載されている人物の大半は武士ですが、武士ではない人物(医師・儒者・料理人・大工など)も記載されています。こうした儒者や医者は、武士と兼任している可能性はあるにせよ、純粋に藩士といえる立場であったかどうかは微妙です。今でいえば会社の組織図に表れ、会社から報酬が払われていても、顧問税理士や社外取締役、産業医が従業員といえるのか、といわれれば誰しもが違和感を感じるのと同じことです。

藩主に苗字を与えられた場合

記録が比較的残っているのに先祖調査が難しい場合がいくつかあります。その代表例として藩主など上位者に苗字を与えられた例が挙げられます。これによって苗字が変わってしまうと、本当の先祖が何という苗字だったのか、少なくとも分限帳からは全く分からなくなるため、先祖調査上の大問題となるのです。

武家社会では功績などを理由として、下位の者が上位の者から同一の苗字を賜わる、ということは大変名誉なこととされ、こうしたことは昔は日本全国でよくありました。

幅広く史料を調べる心構えが大切!

分限帳の類のみで同姓の人物を見つけた場合、血縁関係にある一族と誤認する場合があり、分限帳以外の史料を確認しないと同族かどうか分からない場合もあるため、分限帳の1点突破ではなく歴史的背景も踏まえて幅広く史料をあたる心構えが大切です。

分限帳と一緒に調べたい資料

武鑑

寛政武鑑

武鑑とは江戸時代の書物問屋などが諸藩の当主名、領地の所在地、石高、姻戚関係、幕府内の役職、地位、家格、屋敷地、重臣名、家紋、旗印その他など基本的な情報をコンパクトにまとめた木版刷りの本です。
眺めるだけでも面白い本で、これは江戸時代結構売れました。

大藩ですと、その藩に限定した武鑑なども作成され、なかには当該藩の重臣の系図が掲載されているものもあります。現代から見てもなかなかよくできたもので、江戸時代の人々の力量に感服することもしばしばです。

ちなみに江戸時代の藩士の婚姻相手は大体家格によって決まっており、たいてい自分と同格の家か、少し格上から妻を迎えていました。姻戚関係などで妻(母)の実家が判明すると妻(母)方の家系調査もはかどることでしょう。

国立国会図書館のページ国立国会デジタルコレクション:寛政武鑑

城下町の絵図

江戸切絵図・市ヶ谷牛込絵図

当該地域史料に城下の屋敷割が載った絵図がある場合があります。絵図に描かれる屋敷の主の名前は当然当主の名前ですから、各絵図の年代順に屋敷の当主名をつなぎ、同じく年代順に把握した分限帳情報を照合すればおおまかな推定系図はできます(あくまで点線でつなぐ程度の、家督継承順の系図です)。

金禄調帳

明治維新とその一連の改革によって、武士は今まで藩から得ていた家禄などを失う一方で、華族や士族となって家禄、賞典禄を支給されていました。1876年に明治政府はこれを廃止すべく金禄公債証書発行条例を布告し、家禄、賞典禄を廃止すること、その代償として一定額の金禄公債を交付することとしました。この公債発行のために当時の華士族などの家禄や支給される額について調べたものが「金禄調帳(きんろくしらべちょう)」です。

これは華族になった武士はもちろん、一般的な武士、さらには江戸時代には陪臣だったために分限帳に記載されていなかった武士や、中間などと呼ばれ、明治維新後一時卒族に編入されていた人々も記載されている点で、分限帳に比べるとはるかに先祖調査に有効な史料です。

先祖調査で幕末の分限帳と明治19年式戸籍の間がつながらないときなどに、この金禄調帳が江戸と明治とをつなぐ架け橋の役割を果たしてくれることがあります

まとめ

自分の先祖が武士の場合の最重要史料である分限帳には一筋縄ではいかない様々な注意点があることがご理解いただけたと思います。現代と異なり、幕府や諸藩ごとの様々な事情や形式があるため、史料をあたる上ではその細かな違いや時代背景を意識することや、一つの史料だけでなく多面的に史料を調べることがポイントです。

江戸時代のご先祖の名前を見つけるのは簡単なことではないですが、その分見つけられたときの喜びも大変大きなものになります。自分の先祖は武士かも?という方は、是非分限帳の調査にチャレンジしてみて下さい。

参考文献

『群書類従』
『豊橋市史』
『文政武鑑』
『江戸幕府旗本人名事典』
『女中分限帳が語る大奥』 松尾恵美子
『佐賀藩家臣団編成の諸段階」 高野信治
『本多正成家臣団の基礎的考察』 本多利彦
『いわゆる里見分限帳の信憑性について』 川名登
『大内氏の文書管理について─「殿中文庫」を中心に』 和田秀作