世界最高峰の名家、英国王室の系譜を覗いてみよう

今回は海外の名家、それも世界最高峰と言っていい英国王室の系譜をご紹介しましょう。しかしその歴史は深く広く、どこかにスポットライトを当てないと到底紹介しきれません。そこで、現在のエリザベス2世に次いで長期にわたって女王の座に就いた「ヴィクトリア女王」をご紹介します。

ヴィクトリア女王は1819年5月24日に生まれ、18歳の1837年6月20日に即位しました。世界に君臨した大英帝国を象徴する存在として81歳で亡くなるまで、なんと63年と7カ月もの間在位しました。さっそく、ヴィクトリア女王の功績や足跡を振り返ってまいりましょう。

大英帝国絶頂期に63年7カ月に亘って在位

ヴィクトリア女王は大英帝国のハノーヴァー朝第6代女王。女王に在位していた期間のことを「ヴィクトリア朝」と呼びます。産業革命によって社会インフラ・技術・経済が急激に成熟した、まさに大英帝国の絶頂期と言える時代です。

母の過干渉の下で育った生誕から即位まで

父親はハノーヴァー朝第3代国王であるジョージ3世の4番目の王子、ケント公エドワードで、母親はドイツの小国、ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公国出身のヴィクトリアです。二人の間の一人娘としてロンドンのケンジントン宮殿で誕生しました。彼女が誕生した時の王位継承順位は第5位。父のケント公エドワードが4男だったため、3人の伯父と王位継承順位第4位にある父に次ぐポジションでした。しかも、伯父たちに子どもができればその都度順位は下がるという、王位からは遠い存在だったのです。

「ヴィクトリア」という名前は、母からもらったミドルネーム。今となっては英国らしい名前として定着していますが、それはヴィクトリア女王の長期在位の賜物で本来はドイツの名前です。ファーストネームは「アレクサンドリナ」。洗礼の際に父の長兄である摂政王太子ジョージとともに代父を務めた、ロシア皇帝アレクサンドル1世から名前をもらいました。ロシアとドイツの名前「アレクサンドリナ・ヴィクトリア」は当時、英国でも馴染みの薄い名前だったのです。

ヴィクトリアが生後8カ月の時、父ケント公が薨去し、その6日後には国王ジョージ3世が崩御。摂政王太子ジョージがジョージ4世としてハノーヴァー朝第4代国王に即位します。夫が残した借金を背負わされた母のケント公妃は、弟のレオポルドから資金援助を受けケンジントン宮殿で暮らしヴィクトリアを育てます。その育児ぶりは、まさに箱入り娘のようで過干渉の下に置きました。5歳の頃に女性家庭教師についたハノーファー王国出身のルイーゼ・レーツェンは、ヴィクトリアに勉強を教えるだけではなく、人格形成の大きな影響を与えます。ヴィクトリアも信頼を寄せ、結婚するまで側近を務めました。

1827年に国王の次弟ヨーク公が薨去、1830年には国王ジョージ4世が崩御します。いずれも子のないままでした。そして、三弟のクラレンス公ウィリアムが65歳という高齢でウィリアム4世としてハノーヴァー朝第5代国王に即位しました。ウィリアム4世はヴィクトリアに王位継承の期待を寄せますが、この時ヴィクトリアはまだ11歳。「暫定王位継承者」に認定されてはいましたが、英国で成人とされる18歳までは王位には就かず、母のケント公妃が摂政として権力を得ることになります。ケント公妃に対する国王ウィリアム4世の不信感と嫌悪感はピークに達しており、なんとしてでもヴィクトリアに直接王位を継承したく、自ら生への執念を見せました。

1837年5月24日にヴィクトリアは18歳になり成人。それを追うように6月20日にウィリアム4世はウィンザー城で崩御。これによりヴィクトリアはハノーヴァー朝第6代女王に即位したのです。

 

ナポレオン戦争の英雄もタジタジにさせた「寝室女官事件」

女王に即位してすぐ、ヴィクトリアはケンジントン宮殿からバッキンガム宮殿へ移りましたが、母ケント公妃の過干渉を避けるように自分の部屋から遠ざけます。その一方で、レーツェンの部屋を自室の隣に置いて相談役として信頼し重用しました。

若くして即位した女王に政治のイロハを教えたのは即位時の首相、メルバーン子爵です。ヴィクトリアは父親のように慕って頼りにしていました。しかし、即位から2年も経たぬうちにメルバーン子爵は自らの求心力が低下していることから首相の辞意を表してしまいます。代わって相談役として召されたのはナポレオン戦争の英雄ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーでしたが、60代後半という高齢から断られてしまいました。

結局ウェリントン公の推薦で与党である保守党のサー・ロバート・ピールを召すものの、これからも野党に立場を変えたホイッグ党のメルバーン子爵に相談したいという女王の希望を却下。ヴィクトリアとピールの仲は一気にこじれてしまいます。ピールは女王の側近たる女官たちも保守党議員の妻に交代させることを進言しますがこれに対しヴィクトリアは猛反発。ウェリントン公が仲裁に入るも両者譲らず平行線を辿ります。政権交代による人事異動なのでピールの進言は慣習上当然のことなのですが、結局ピールが折れ寝室の女官をそのままにすることになりました。

また、このことでピールは首相の大命を拝辞。メルバーン子爵が首相に留まることでこの騒動は決着します。ナポレオンを下した名将ウェリントン公も、年の差50歳の若き女王が発するタンカにタジタジとなったこの一件。のちの世に「寝室女官事件」と呼ばれる有名なエピソードです。

 

二度惚れして決意したアルバートとの結婚

「寝室女官事件」に象徴されるように頑固で荒い気性を見せる女王に対し、ゴシップ好きのマスコミは「早く結婚したほうがいい」と書き立てましたが、縁談は密かに進んでいました。相手となるのは、母の兄ザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世の息子、つまり女王の従兄弟であるアルベルト(英語読みではアルバート)です。

即位の前年にヴィクトリアはアルバートに会い、日記にも好印象を綴っていましたが、身辺の周到なお膳立て攻勢に反発します。結局押し切られて20歳になった1839年に引見し、一段とイケメンになり知性溢れるアルバートに惚れ直して結婚を決意。身長が167cmと小柄だったアルバートに対し、ヴィクトリアも145cmだったため、とてもお似合いだったのではないでしょうか。翌年の2月10日にロンドンのセント・ジェームズ宮殿で盛大な結婚式を挙げます。

 

ヴィクトリアとアルバートの共同統治へ

国民からは人気があったアルバートも、貴族社会や社交界からは外国人として疎まれていました。そのためヴィクトリアは結婚当初、夫が政治役割を果たすことを嫌っています。しかし1840年代、2人の間に子どもが誕生してゆくようになると、アルバートは補佐役を務めるようになります。徐々に表にも出るようになり、英国はヴィクトリアとアルバートの共同統治の状態になっていきました。

特にアルバートは二大政党の権力争いに加担することなく王権の中立化に努めます。アルバートの影響で「寝室女官事件」以来ピール首相に不信感を抱いていたヴィクトリアの気持ちを変え、支持へと傾いていきます。また、こうした夫妻の政治姿勢が現代のイギリスへと続く「立憲君主制」の足がかりとなっています。

 

受難の時代を招くアイルランドの「ジャガイモ飢饉」

1840年代、英国は受難の時代でもありました。1845年にアイルランドで起こった「ジャガイモ飢饉」は深刻で、100万人もの命が失われます。さらに100万人が島を離れ北米大陸などへ移住。深刻な人口減の状態に陥ってしまいました。

この惨状に対しヴィクトリアは「アイルランドとスコットランドの貧民のための英国救貧協会」に2,000ポンドを寄付し、救いの手を差し伸べます。また、ピール首相は保護貿易主義の穀物法廃止を決意。ヴィクトリア夫妻もこれを支持しアイルランド人が安い価格の輸入穀物を購入できるようにしようとしますが、これを地主貴族などが強く反発します。結局、ピールは法案と刺し違えて首相を辞職することになってしまいました。

 

世紀の大イベント「第1回万国博覧会」に注力

1851年には国威と産業・技術大国である英国を世界に知らしめる一大イベント「第1回万国博覧会」がロンドンで開催されます。アルバートは準備から取り仕切り、ヴィクトリアは開会宣言を行いました。万博は140日の期間中にのべ600万人が訪れ、収益も相当な額に上ったとされ、主要な道路、ホール、博物館などの創設において賄われます。

 

アルバート崩御

アルバートは1850年代後半から徐々に健康を害するようになります。溺愛していた長女のヴィッキーが1858年にプロイセン王子フリードリヒに嫁いでから急激に元気がなくし、さらには皇太子バーティが引き起こす不良行為や問題行動も悩みの種でした。

1861年12月13日、ついにヴィクトリア女王ら家族が見守る中、アルバートは崩御。42歳という若さでした。悲しみに暮れた女王はその後10年以上にわたって喪に服し、公の場に現れることもほとんどなくなります。服喪期間はあまりに長く、次第にマスコミや世間からも批判の声が高まりだしました。

しかし、内政への無関心を装いながらも外交には高い関心を持ち、国外での欧米諸国による問題への介入を阻止し、一方でヨーロッパの平和が脅かされる問題へは積極的な介入を支持するなど、深く政治に関わっています。

 

大英帝国の植民地政策を推進

保守党の首相であるベンジャミン・ディズレーリの導きで公務に復帰したヴィクトリア女王は、帝国主義政策を支援。大英帝国は世界各地での植民地化、半植民地化を一層押し進めていきます。1877年には初代の「インド女帝」に即位。植民地政策は強硬的に行われていき、この頃地球上の陸地と人口の4分の1を支配しました。

一方では植民地の権力者に権限を温存させたり、その子息たちに教育を施したりするなど、他国の植民地支配と比べれば温情型でした。

晩年は病気がちになることが多くなるも精力的に公務を行なってきましたが、徐々に衰弱し、1901年1月22日に崩御。81歳の生涯81を閉じました。

 

頑固で短気ながらも情に厚いヴィクトリアの人柄

女王の性格として知られているのは、とても短気で頑固、自分に反抗する人は自分の子や孫でも信用せず排除しようとしていた点です。

しかしその一方で情に厚く、気に入った人物や理解者に対しては全幅の信頼を置いていたという事実もありました。在位中の10人の首相とも、とてもうまくいく人とそうではない人がはっきり分かれていたことがわかっています。

また当初は嫌悪感をいだいていた人物に対して、その後相手の行動や考え方、人間性を理解することで信頼を寄せることができる素直な一面もありました。とても人間味あふれる人物像だったと言っていいでしょう。

 

子孫は英国王室から欧州各国へ

ヴィクトリア女王の子孫を家系図で見てみます。王配アルバートとの間に4男5女と子宝に恵まれました。長女のヴィッキーはドイツ皇帝のフリードリヒ3世の妃となり、その間にドイツ皇帝となったヴィルヘルム2世が誕生しました。

長男のアルバート・エドワードは母から王位を継ぎエドワード7世となって、サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝の初代イギリス国王、さらにはインド皇帝王位も継承します。次女のアリスはヘッセン大公国のルートヴィヒ4世妃となり、その四女アレクサンドラはロシア皇帝ニコライ2世の皇后となりました。

エドワード7世(在位:1901年1月22日~1910年5月10日)以降、現在のエリザベス女王へと繋がる王位を見ていくと、エドワード7世の次男がウィンザー朝の初代国王で後のジョージ5世(1910年5月10日~1936年1月20日)。ジョージ5世の長男のエドワード8世(1936年1月20日~12月11日)が父の死を受けて独身で即位するも、不倫騒動が引き金となってその年の12月11日に退位。

すぐ下の次男アルバート、後のジョージ6世(1936年12月11日~1952年2月6日)は、最後のインド皇帝(1936年~1947年)にして、最初のイギリス連邦元首(1949年4月28日~1952年2月6日)となります。ジョージ6世となるケント公アルバートと妃エリザベスの第一子・長女として誕生したのが、イギリス連邦王国女王のエリザベス2世です。即位は1952年2月6日で、在位は現在に至るまで続いており歴代最長となっています。

 

ヴィクトリア家の悲劇の血とは?

ヴィクトリア家には血友病の因子を持った血が継承されているという真実があります。「血友病」とはX染色体上の遺伝子の欠陥による劣性遺伝で、父親から息子へはX染色体を受け継ぎません。ヴィクトリアの子孫の男子の中に血友病を発症するものが多くいました。しかし、ヴィクトリアの先祖に血友病になった者の記録はなく、彼女が何らかの突然変異で血友病の因子を持ったと考えられています。

実際には四男レオポルドが血友病で苦しみ、長女ヴィッキーの三男ジギスムント皇子と四男ヴァルデマール皇子は幼くして感染症で薨去し、血友病の疑いが指摘されています。さらに、ヴィクトリア家から継承されてしまった血友病は、英国内のみならず国外の王室にももたらされています。二女のアリスは血友病の因子を持ち、娘アレクサンドラはロシア皇帝ニコライ2世の皇后となりましたが血友病の因子を持っており、孫でヴィクトリアのひ孫にあたる最後のロシア皇太子アレクセイは幼い頃から血友病で苦しみました。また五女のベアトリスを通じてスペイン王室ブルボン家にも血友病がもたらされたことがわかっています。

世界を制した帝国の王室の血筋は複雑

英国王室の血筋・家系図はたいへん奥が深く、ヴィクトリア女王が君臨していた帝国主義真っ只中の時代にはヨーロッパ各国の王室との交わりも多く、とても複雑です。なかなか身近に感じることはできませんが、映画や舞台として数多くの作品が世の中に出ているので、そういったところに興味を注ぎ掘り下げていくのもお薦めしたいと思います。